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変化/記憶/存在

自分の制作活動のルーツを考えるとき、思い出すのは生まれ育った大阪の郊外の情景だ。
親しんだ風景や環境が時間とともに変わっていくさみしさ、無力さ、その時感じた五感の記憶なんかが、自分の根源にある。

幼い頃は祖父母の元によく預けられていて、団地の前の広場みたいなところで祖母がよく遊んでくれた。年季の入った4階建ての団地で、ミノムシがめっちゃついてる垣根があって、団地の真ん中に金木犀が咲いていた。祖母は町中色々なところに私を連れて行ってくれた。
成長して祖父母の家に行く頻度も減り、団地の前も通らなくなるうちに、団地は取り壊されてしまった。好きだった金木犀の木も無くなってしまった。
毎年夏祭りをしていた、町内で一番大きな公園は駐車場になった。祖父母が経営していた寿司屋も、気づかぬうちに店じまいして更地になり、これも駐車場になった。

成人して地元に帰ると、団地は建て直されて綺麗な高層マンションになり、新築の介護施設や病院が増え、コンビニがひとつできていた。生家の隣の田んぼはドラッグストアになった。町に住む人々も変わった。
自分の知らない風景の中に、ぽつぽつと記憶の中の風景が混ざっている感じだ。その記憶も年々曖昧になりつつある。「本当に私はこの場所にいたんだろうか?」そんな気持ちにすらなる。

都市に住むということはこういうことなんだと思い知らされる。時間の経過に伴って、建物は老朽化し、人は老い、社会は変わり、都市計画も変更される。それに抗うことはできないし、目まぐるしい変化を受け入れるしかない。だが、自分の知っている風景や環境が変わることに、異常に心が動揺してしまうし、他の人はさして気にせず暮らせているのも不思議に思う。自分の存在が揺らぎ出すような気持ちにならないですか?

私は街を歩きながら、今目の前にある現実と、自分の記憶の答え合わせをすることで、揺らぎそうになる自分の存在の確認をする。その場所に私がいて、何かを感じ、何かを記憶したのは事実だ。「変化したこと/変化していないことを私は知っている」これが、自分の存在の確かさを証明する手段だと思っている。
私にとって、壁の写真を撮ることも、鉄板を引いてゆっくり街を歩くことも、なんなら日常を生きることそのものが、変化と記憶の確認作業であり、自分の存在の確認作業である。

新型コロナウイルスによって、生活も風景も大きく変わってしまった。変容してしまったこの世界のことをまだ消化できていない自分がいる。コロナ前の世界のこと、まだ沢山覚えているうちに、身の回りの風景をもっと見渡すべきだと思っている。



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