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言葉について_浮遊する標語

最近、言葉について考えている。
きっかけは昨年から耳にし続けてきた言葉「不要不急の外出は自粛」が、街の中でふわふわと所在なく浮かんでいるような気がしだしてからだ。
私たちの心に”自粛”という言葉が同調圧力を伴って強く跡を残し、脳を緊張させていたのは第1回緊急事態宣言くらいまでで、あとは耳が慣れてしまった。ふようふきゅうのがいしゅつはじしゅく、不要不急ってなんだっけ?自粛ってなんだっけ?真剣に考えれば考えるほど意味が逃げていく。
結局「不要不急の外出は自粛」は、ただなんとなく存在してはいるが、なんの効力も持たない言葉となって街に浮遊することになった。

この"ただなんとなく存在してはいるが、なんの効力も持たない言葉"、街の中には割とあって、標語やフレーズの類が形骸化してあまつさえ落書きされてぽつんと存在している。
よく目に留まるのは環境美化を呼びかける標語だ。「まちをきれいに」「落書きはやめましょう」「美しいまちづくり」「ポイ捨て禁止」・・・みたいな。得てして落書きされたりゴミだらけだったりする。このとき、言葉はただそこに存在しているだけでなんの意味も持っていない。

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この、言葉が言葉でなくなり本来の役割を失っているにも関わらず街の中で放置されている状態、私はこの状態にとてつもなく人間臭さを感じる。たぶんロボットの世界だったらこんなものをいつまでも放置しない。意味がないものを街の中に置いておく理由を合理的に考えても答えが出ない。
いわゆる標語的な言葉が街の中で形骸化し浮遊してしまう原因のひとつは、その曖昧さであると私は考えている。「まちをきれいに」・・・どのような状態が綺麗なのか?私たちに街をどう利用してほしいのか?その範囲は?、全てが曖昧である。別に全てを記載しろと言う訳ではないが、言葉が指し示すものが曖昧すぎて心と脳に留まらない。結果、意味は形骸化し言葉の存在だけが空間に浮遊する。

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「不要不急の外出は自粛」も段々そうなりつつあると感じる。もう散々言われていることだが、不要不急とはいったいどの程度の用事を指すのか?その時間は?行動範囲は?外出理由のOKラインは?また、自粛とはどうすることなのか?、とにかくフワッとして曖昧でいかにも役所っぽい標語だなと思ってしまう。「不要不急の外出は自粛」がもし看板で街の中に立てかけてあったら、とっくの昔に忘れ去られ落書きされて道路の隅に追いやられている気がする。
だが私は、そういう・・・言葉が街の中でただ存在してるだけの状態は好きだ。(多くの人が苦しめられているこのコロナ渦で、皆で守るべき標語の意味が失われかけている状態を好きだなんて、不謹慎だと言われるかもしれないが。)言葉が意味を無くして本来の役割を失い、社会にただ存在し、さらに落書きまでされて・・・意味がないものがこの世に存在しているが、特に否定も肯定もされない、ただあるだけ。いかにも人間らしい生の営みを感じるし、ある種の自由を感じる。

とはいえ、環境美化の呼びかけ看板とは違って、外出自粛に関しては一刻も早くこの世に存在しないようになってほしい。コロナ渦が収束し「不要不急の外出は自粛」を見聞きせずに済む日が早く来ますように。



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