2019年 F1 アブダビGPレビュー

アブダビのGPは、2019年というシーズンを結果的に端的に表したレースとなった。
それ以上でもそれ以下でも無い。2019年シーズンとはアブダビGPであり、好む好まざるを問わずシーズンの象徴だったのである。

ヤス・マリーナは典型的なティルケサーキットでスリリングさとは縁遠いレイアウト。だが、それすらも既に「消化試合」となったこのレースにどこか相応しい雰囲気もある。
そんな、史上最多(タイ)の21戦目となったアブダビGPはメルセデスのハミルトンが圧倒的なスピードを見せて完全制圧した。
PPからスタートしたハミルトンは結局のところ一度もリーダーを奪われることなくヤス・マリーナのトラックを席捲し、チェッカーを受けた。

この手の付けられない強さこそが2019年の象徴である。
2019年という年は結局のところそういう年だったのである。最高のマシンと最強のドライバーがシーズンを席捲する。
そのエッセンスがアブダビGPの全55周には散りばめられていた。
別にこういったシーズンは珍しいものでは無い、むしろこのような1チームによるワンサイドゲームこそがF1の本領という論もあろう。
参加チームの全てがコンストラクターであるこのカテゴリは、開発の当たりはずれによっては往々にしてありえる事象だ。
だから特段、このような状況について茶々を入れる気は無い。これまたレーシングの神様の思し召しであり、自然の摂理だ。
ハミルトンとメルセデスはただ単に最高の仕事をした。
フォーミュラワンというカテゴリににふさわしい仕事をやりきっただけなのである。
それが面白いかどうかは別の話だ。もっとゴタゴタの大混戦が好きな人もいるだろうし、いやいや、メルセデスの21戦21勝が見たかったよというスリーポインテッド教の信徒もいるかもしれない。
エンターテイメントとして、メルセデスが演出してハミルトンが主役をつとめるドラマはイマイチなのかもしれないが、正しさという点においては彼らは一点の曇りもない。

2019年が後年語られるべき価値があるシーズンなのかどうかは、私にはわからない。
2010年代の他のシーズン同様に、とりたてて語られることは無いかもしれない。

だからこそというべきか、2019年最終戦のアブダビはシンボリックなレースとして記憶にとどめておいた方が良いのだ。
メルセデス、ハミルトンがハットトリックで完勝したレース。
そしてそれだけでは無く、気まぐれなレーシングの神様がフォーミュラワンの未来へ福音を与えたレース。

ハミルトンより16秒後方では、最終ラウンドでいよいよ覚醒してきたヴェースタッペンが操るレッドブルが。
そして43秒後方には、フレッシュなパワーユニットのボッタスの追撃を見事にかわしたルクレール。
レースのタイトルロールはハミルトンであったが、その後方では確実に次世代の、2020年代の主役となるべきドライバーが、名乗りをあげつつある。
これも2019年なのだ。
シーズン中幾度とあった、若き才能の煌めきは結果的にハミルトンの牙城を崩すには至らなかった。
不足していたのは、道具か、修羅場での経験値か、あるいはレーシングの神様の微笑みか。
玉座につくために不足してた何かのピースは結局のところ2019年、全21戦では手に入れることができなかった。
それでも、そんな状況でも彼らは王の背中にピタリとつくことはできた。足りないものだらけの状況だが、可能性というレーシングファンへの最大のプレゼントを贈ることができた。
可能性があればこそ、来るべき2020年にも夢が持てる。
人は夢だけでは生きていけないが、モータースポーツは夢が無いと存続できない。
そういう意味では、王者ハミルトンの後方60秒内で演じられていたドラマは、フォーミュラワンを延命するものだったと言って良いかもしれない。
いま、フォーミュラワンのファン、すなわち無責任な外野に対して一番有効なものは、王朝を倒すものがいるかもしれないという可能性である。
無責任な外野はいつだってドラマを期待する。
2020年、それは可能だろうか。それはわからない。ヤス・マリーナのトラックがとっぷりと闇に溶けていくのと同時に、その可能性も姿を消した。
だが、玉座の後ろで繰り広げられていた若武者たちの奮闘は、2019年の展開にちょっぴりうんざりしていたファン達に、少なくとも来年3月のオーストラリアまでの夢は残せた。
それは儚い夢かも知れない。それもまた2019年というシーズンという風景を象徴していると言えよう。

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