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父方の叔父と母方の叔父―母方「おにい」編

はい。皆さんこんにちは。miriamです。今回は、いつぞや書きたいと言っていたこと・・・うちの母方の叔父と父方の叔父の違いについて、書きたいと思います。同じ「叔父」の立場でありながら何でこんなに違うかなぁ。ちなみに今回の扉絵は、母方の叔父である「おにい」を悼む白い花のイラストを選びました。もっと生きててほしかった・・・。

昔、私がまだランドセルを背負って学校へ通っていたころ、我が家にはお正月になると父方と母方、それぞれの実家に年始の挨拶に行くという慣例の行事がありました。その時になったら、両親がいつどっちの家に行くのか教えてくれるのですが、それについての私の反応を記すことで、皆さんに私がどちらの家に(叔父に)どういう思いを抱いていたかを知っていただきましょう。

まず、母方の実家に行く場合。

「え?おばあちゃんち、〇日に行くの?おにい、いる?いるよね?やったあ!!〇日って言わないでもっと早く行こうよ!お泊まり、したーい!!」

そして、父方の実家に行く場合。

「え?おじいちゃんち、△日に行くの?・・・そう・・・あの・・・お留守番しててあげるよ。行かなきゃダメ?どうしても、どうしても行かなきゃダメ?・・・うん・・・わかった・・・(小さな声)」

どうですか?明らかにテンションが違うでしょ?そうなんです。私、母方の実家に行くのは大好きだったんですが、父方の実家に行くことはできれば遠慮したかったんです。その理由は、同じ立場でありながらあまりにも違いの大きすぎる双方の叔父の性格にありました。一度に両方書くとすごく長くなってしまうので、今回は母方の叔父について次の回で父方の叔父について書きたいと思います。

私と「おにい」の関係については、前に書いた記事「小学生酩酊部隊」を読んでもらえればわかっていただけると思いますので、ここではその後の「おにい」について書きたいと思います。姪である私は、とうとう「おにい」の享年を超えてしまいました。姪にトシ超えられてどうすんねん、おにい(涙)。

母方の実家には、もうすでに祖父も祖母もなく、長女と次女(母の姉。私の叔母です)と、おにいが一緒に暮らしていました。

ある時から、おにいの仕事からの帰宅時間が目に見えて遅くなり始めました。深酒をして帰ってくることも多くなり、心配した叔母は理由を問いただしたのですが、おにいは「なんでもない」と言って答えなかったそうです。少し話は変わりますが、以前お泊まりした時、私はおにいと人生についてしみじみ語りあい、私の「うまくいかないもんだねぇ、人生って」の言葉におにいが「でも、そう捨てたもんでもないぞ。イヤなことっていうのは確かにあるけど、そう長く続くもんじゃない」というやり取りをしたことがありました。そう思って、おにいはイヤなことを我慢していたのかもしれません。

おにいの遅い時間の帰宅はその後も続き、叔母2人は家の前に出ておにいの帰りを待つようになりました。時には街路樹の陰に隠れて待ち伏せしたり、近所まで出ていって帰ってくるおにいの姿を見るとあわてて家に帰って寝たふりをしたり・・・帰ってきたおにいの後をついて回って、今まで何をしていたのか、どこに行っていたのか、なぜこんなに遅くなるのか、「尋問」したこともあったのです。さらにおにいにとって運の悪いことに、この姉2人が2人とも気が強いもんですから、その責め方は尋常なものではありませんでした。「口うるさい」をはるかに超えて、おにいにとっては心に空いた傷口に塩をすり込まれてナイフでグサグサつき刺された感じがしたことでしょう(私、この2人にそうされた経験アリ)。

そんな姉がいる家に、誰が早く帰りたいと思うでしょう。おにいの帰りはますます遅くなり、姉2人は帰りが遅いことをなじるようになっていきました。今から考えれば、その時のおにいの気持ちは、これは推測するしかないのですが・・・自分の抱えている問題に加えて姉2人による拷問にも似た責めの板挟みになり、どこにも逃げ場がなくなってしまって、追い詰められてとても苦しい思いをしていたに違いありません。

そして、ある日の明け方ごろ、「それ」は起こりました。

おにいが寝ている家の2階から、いきなり耳をつんざく大音声でテレビの音が聞こえてきたのです。姉2人はその音に文字通り飛び上がり、何事かと2階へ上がってみると・・・おにいはテレビのリモコンを手に、倒れていました。すぐに119番に電話し、「弟が息をしていない」ことを告げると、救急隊員の方から心肺蘇生法を教えてもらい、自分たちが到着するまでやめないで続けるように、という指示を受けました。その通りやってみると、少しおにいの顔に赤みが差してきました。もし、そのまま続けていて救急隊員の方々に引き渡せることができていれば・・・おにいは今も元気で、私たち3バカをからかったり(「3バカ」が何のことかについては私が前に書いた記事「小学生酩酊部隊」を読んでください)、いろんなところに連れて行ってくれたり、したかもしれない・・・のですが、叔母たちはあろうことか「恐い」という、ただそれだけの理由で、心肺蘇生法をやめてしまったのです!!普段あんなに強い態度でおにいを責めさいなんでいながら、いざという時にはその強さはみじんもなく、ただ「恐い・・・恐い・・・」とつぶやくだけだったそうです。

かくしてひとたびは生きる可能性を持っていたにもかかわらず、私の大好きなおにいは・・・母から事の顛末を聞いた私は、叔母たちに対して猛烈に腹を立てました。そして一生許すまい、と誓いました。なぜ呼吸法をやめるんだ!!なぜおにいを責め続けたんだ!!帰るのが遅くなるのもお酒の量が増えるのも、きっと何か理由があるはず。なぜ責めるのではなく落ち着いて穏やかにおにいの話を聞いてあげてくれなかったんだ!!そしたらおにいだって心を開いて素直に話してくれたかもしれないのに・・・苦しみを抱えたまま、手の届かないところへ行ってしまった・・・。

悲しさのあまり涙が出ないことって、あるんですね・・・。おにいの葬儀の間、私はどうしても泣くことができず・・・そして10数年たった今でも、叔母たちへの憎しみは消えずにいます。なぜおにいを見殺しにした!!なぜ助けてやってくれなかった!!もし私がその場にいたら、絶対に心肺蘇生法をやめなかったでしょう。「恐い」とつぶやく叔母の頬をひっぱたいて、「もしやめたらおにい、死んでしまうで!!それでもいいのか!!」と怒鳴りつけ、私はおにいの体にまたがって心臓マッサージを続けたに違いない。救急隊員の方が来るまで、絶対にやめなかった!!いや、それよりも、おにいの帰ってくる時間が遅くなることが続いてる、と聞いたら、訪ねていっておにいと一杯やりながら、「もし間違っていたらゴメンやけど、おにい、最近何か悩んでること、ない?私じゃなんにもできないかもしれんけど、よかったら話だけでも聞かせてくれへん?」と聞いてあげられたのに。・・・そばにいてあげられなくてごめんね、おにい・・・。

おにいに甲子園球場へ阪神―巨人戦を観に連れて行ってもらってた時、いつも待ち合わせしていたのが地下にある阪神電車の乗り場の前でした。再開発が進んですっかり様変わりしてしまいましたが、今も昔の面影を残しているところに行くと、人波の向こうから会社帰りのスーツ姿のおにいが、大きく手を振りながら駆け寄ってくるような気がしてなりません。

以上が、私と母方の叔父とのお話です。―合掌―

次回は、おにいとは対照的だった父方の叔父のことについて書かせていただきますので、ぜひぜひ次回も遊びに来てくださいませ。miriamでした。


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