「希望」(それでも生きなければならない)
見た瞬間に痛みを感じた。
この絵は一瞬でこころを捉えた。
外界との繋がりをあらわす瞳。
瞳が閉じられた絵画のおんなたちを紹介してきた中でも一番のお気に入り。
何度見てもこの絵を超えるものがない。
ジョージ・フレデリック・ワッツ「希望」。
この絵をみた時の自分はこの少女より少し上だったか。
ワッツの「希望」は静かな悲しみの中で必死に希望を繫ごうとしているようにみえた。
それが当時の私のこころに響いたのだ。
根底にある悲しみの正体は、生きている間にはっきりと解明することはできないだろう。
ことばで表すとすればそれは「孤独」が近いかもしれない。
ワッツの希望は今にも切れそうな弦に全てを託しているように見える。この必死さが痛みを、悲しみを、誘うのだろうか。
絵を見ていると
それでも生きなければならない。
このことばが浮かぶ。
人は生まれてから誰もが孤独なのだ。それは自分さえも完全に理解は出来ないから。だから悲しみも生まれる。
それでも人は生きなければならない。
なぜ生まれたのかは分からないが、最後の瞬間(とき)を迎えるまで生き続けなければならない。
こう考えるのはなぜなのか?
私たちは母の胎内で羊水に浮かんでいる時が、きっと一番幸せなのだ。
母から離され、安全な場所から離され、自分の肺で呼吸をしなくてはならなくなった時から孤独が始まる。
生まれた時から人は孤独になるのだ。
その孤独は他者と接することで他の感情を生む。
生きるとはこういうことなのだろう。
誰が私たちを生かしているのだろう?
ワッツの絵をみているとまるで祈っている様にもみえる。
私たちを作った存在。母に託した存在。それを神というのなら
どこからきて何処へ行くのか分からない私たちは神の許可がおりるまで
生きなければならない。
ワッツの「希望」は孤独でもあり、祈りである。
この絵の少女はきっと私なのだ。だからこんなにも痛いのだ。
まだまだたくさんの記事を書いていきたいと思っています。私のやる気スイッチを押してくださーい!