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ウィッグの奇跡 ~父に捧ぐ

※今回は、少しセンセーショナルな部分も書きますので、途中で辛くなったり不快と想われた方は読むのを中断してください🥺

※世界情勢が不安定の中、少しでもふっと一息つけるような内容にしたいとは思い筆をとりました。

それでは【ウィッグの奇跡】をお楽しみください。

父の生い立ち


これは我が父に捧ぐ真実の物語である。
昭和19年に誕生した父は67歳で他界した。北陸の最先端、能登半島の山の中で誕生した父は金沢に下宿しながら高校に通った。卒業後、椎茸の菌を普及する会社に就職し、40年勤めあげ、それなりの役職にもついていた。生産者の方から猪肉や鴨肉、蜂の子をもらって食して喜び、仕事を楽しんでいる様子であった。

40年勤めあげたといっても当時の世の中は、バブル崩壊の真っ只中で、多くの会社でリストラがなされており、父もその対象となって、50歳代半ばで早期退職を余儀なくされた。事実上のリストラだ。

リストラされる前の父は穏やかで優しく、お酒を飲まないと話せない性格だったが、父の実家が酒屋ということもあってか、飲みだしたら酒も喋りも止まらない、ちょっとたちの悪い酒好き🍶だった。

ホームセンターが大好きで、便利な道具を見つけては自慢気に見せ、楽しんでいた。その道具のほとんどはあまり用途がなく、母に
"また無駄なもの買ってきて"😠と小言を言われていたものだ🤭
なんだか懐かしくて笑みがこぼれる。

母と結婚

ここで母を簡単に紹介しておこう
母も父と同じく北陸出身で、薬局を営んでいた家庭の長女である。下の兄弟の面倒を見ながら、会社員として若い頃は勤めていたらしい。

父26歳 、母23歳でお見合い結婚をした。昭和40年代初期、戦後とはいえいえど、まだまだ早く結婚するのが当たり前の時代で、お見合いも今と違って普通のことだったらしい。特別気に入っていなくても"まあいいかも"で結婚できた時代だ。ほどなくして私と弟が産まれる。

ここまでお読みくださった方、なーんだ普通の話じゃん❗と思われているでしょう。しかーし、ちょっとそれが違うんです🤭続きをお楽しみください🍃

私と弟の誕生の危機

無事にお見合い結婚が成立した父と母。どこぞやの池のボートに乗りながら父は母に言ったそうだ。"この波止場に僕らの波止場を作ろう"
聞いたときには思わずビール🍺を吹き出してしまった(笑)。まぁとにかく幸せだったのだな、ということだけはわかる😌。

結婚生活前から母は何かしら父に対して違和感を覚えていた。仕事は真面目にするし、優しくて穏和。外見は背が低くて筋肉質の太め。顔は眉毛がとても濃くて、決して男前ではないが、人の良さそうな印象を与える。現に誰からも好かれていた。なのに違和感があるのは何故???

違和感の正体

結婚後、ごく普通に生活していたが、父はお風呂の時だけ何か隠そうとしている様子があったらしい。恐る恐るお風呂の様子を伺うと…髪がない
二度見、三度見しても髪がない!
驚いた母は父に尋ねた。
"どういうこと?"
父には弁明の余地もなかった。ふさふさな髪の毛はほぼ全部カツラだったのだ。普通ならお見合い前に言うよね〰️
父はカツラを隠してお見合いをし、結婚。もちろん父方の両親、親戚は皆知っていたが、カツラの隠蔽をしていた。カツラの隠蔽結婚だ。

母の決意

母はショックのあまり寝込んだ。24才のうる若き乙女の結婚した相手が相手の家族も協力してカツラの隠蔽をして結婚させたのだから…それは寝込みますよ🛌

私の祖父(母の父)は母にこう言ったそうだ。

"辛い思いをさせてすまない。縁があったんだと思う。このまま結婚を続けてみてはどうか"

え〰️!
母は腑に落ちない。しかし泣きながら寝ているとき、今まで見たことがないような、観音様が光をおびて夢に出てきた。母は、これはこの結婚を受け入れなさいというお告げだと思い、全てを受け入れる覚悟をした。
カツラの隠蔽を許し、転勤族であった父に全国方々ついていき、子ども二人を育て上げた。凄いとしかいいようがない。が、父と母が喧嘩をすると必ずカツラ隠蔽の話になり母が勝利。父は死ぬまで母に頭が上がらなかったのだ。

母の決意のおかげ

母の結婚継続の決意によって、私と弟は存在している。まさにミラクルだ。
さらに私達も結婚して子どもがいる。母の決意がなかったら、私も弟も子どもらも存在しない。夫と出会うことすらもなかっただろう。だって生まれなかったかもしれないのだから。母の泣きながらの決意に感謝である。

父のコンプレックス

これまでの奇跡はこのへんにして、父が長年抱えていた髪の毛問題について記しておく。20歳代から薄毛になり26歳には頭にすその方を残してほとんど髪がなかった父。ただの遺伝だ。基礎疾患などは全くない。
父はそれを隠すために、はたまた父の両親が若いのに可哀想だと思い、結構上等なカツラをつけていた。なんせ子どもの私たち兄弟さえも小学3年生頃まで気がつかなかったのだから。

はじめて知った時には驚いた‼️なんせ父の髪の毛が、髪の毛だけが、扇風機の上でゆらゆらとなびいていたから。洗ったカツラを目撃した瞬間はご想像ください😊

何でか分からないが家族にはカミングアウト。その後は遠慮しながらもつけたり、外したりしていた。

家族にも遠慮しながらカツラを取り扱っていたので、もちろん会社には内緒にしていた。ただ家族としては懸念があった。お酒を呑んで寝る週間があった父は、大きな鼾をかきながら無造作に眠る。そのため、時々寝返りなどでカツラの両面テープが緩み頭から浮いてしまうのだ。ちょっとしたホラー👻だが家族は見慣れていた。
いや待てよ🧐父は出張が多い。同じように寝ているならきっと会社の人にも気づかれているはず…と家族は内心思いながらも父のカツラを気遣っていた。

コンプレックスからの解放

時をさかのぼるが、40年勤めた会社のリストラ後、父は警備会社に再就職した。なかなか厳しい時代で仕事をみつけるのも大変であったが、なんとか就職できた父をみてほっとした覚えがある。しかし、長年勤めていた頃とは違い、ことなしか活気がないようにも見受けられた。50歳代後半まだまだこれからという時、少し元気のない父を心配したものだ。それでも持ち前の真面目さで仕事は通常どうりに行っていた。

死の淵

昨日まで普通に生きていたのに人生には何が起こるか分からない。父と母、弟が静岡の親戚宅に車で行った。帰りの運転は父。自宅に帰って大好きなお酒🍶をいつも通りに呑んでダイニングで鼾をかいて寝ていた。ベッドで寝るように弟が声をかけるが、鼾をかいたまま返答がない。普段であれば、う~んとか分かったなど酔っぱらいながらも返答する父が、鼾のみで返答がない。何かおかしいと思った弟が看護師の私に📞してきた。状況を聞き、すぐに119番するように伝え、搬送先に向かった。診断は脳梗塞。発見が早かったため、医師から血栓溶解療法をするか否かの判断を迫られた。脳出血で死亡する確率は30%。 血栓溶解療法を行わなければ全身麻痺で生きることになる。血栓溶解療法を行える時間には限りがある。あと3時間以内に判断してくださいと医師に言われ、ものすごく迷ったが、処置をしてもらう決断をした。

処置後、ICUで経過を見ていたが、父は死ななかった。生き延びたのだ。もし血栓溶解療法をして父が死んでいたら私は自分を責めただろう。本当に色々なことに感謝した。その後の経過も概ね順調で、日常生活に支障のない程度に回復し、孫の面倒を見られるまでになった。

ICUでの決行

突然、脳梗塞になった父だがお忘れになっていることはないでしょうか。
そう父はカツラを着けている。勿論、搬送された時も着けていた。救急隊の方や医師、看護師さんにその事実を伝えることは重要であった。検査に支障が出るからだ。しばらく意識がなかったことを逆手にとり、私と弟は相談した。

父のコンプレックス(カツラ)を取り除こう❗

大きな声では言えないが、ICUでの面会中、残されたわずかな父の髪の毛を全てT字カミソリでそり、カツラを隠し、その代わりにニット帽を用意した。
父の意識が戻ったとき、もうカツラはつけられないと告げた(本当はつけられたのだけど…)。
父はそれを病気になったからしかたがないと寂しそうに受け入れた。

スキンヘッドは爽快

脳梗塞と私と弟の作戦でカツラからのコンプレックスを解放された父は、

早く取ればよかったな(笑)カツラでベンツ一台くらいの金を使ったぞー!

と自慢気に話した。長年のコンプレックスから本当に解放されたのだと嬉しくなったものである。

人生は本当に何がおこるか分からない

脳梗塞後のリハビリを真面目に通い、余暇もまあまあ好きなテレビを見ながら過ごしていた父。毎月の定期検診で身体の状態を採血や他検査でフォローしていた。が、母から肝機能の値が異常に高いと医師に言われたとの連絡があった。後日病院に呼ばれた。たまたま母が仕事であったため、私が状況を聞くことになった。医師から言われた言葉は、

"お父さんは余命1ヶ月の癌です"多分膵臓から発症したと思いますが、全身に転移しているので手術はできません。どうなさいますか?"

え!!えー!!!父、母への宣告も含めて全ての決断をまた託された。弟に即相談。父も母もこの残酷な事実を受け止められないだろうと話し合い、癌であることは伝えたが、余命は伏せることにした。弟は同居していたため特段に辛かったと思う。私ももうすぐ死ぬということは父に伏せた。時折もうすぐ手術できるよな?と問われた時には、父を受診先から自宅に送り届けた後、車の中で大泣きしたものだ。

"ごめん助からないんだよ、お父さん"

対症療法しかできなかったが、家族の手厚い介護を受けながらその3ヶ月後に父は居なくなった。多分薄々長くないと気がついていたのだと思う。

父の死後

母は途方にくれたが、たまたまうちに来てくれた動物愛護センターのミニチュアダックスのプリンに助けられた。
プリンが母の心を優しく癒してくれたのである。そのプリンももう居ないがとても感謝している。

40年勤めた会社の人が葬儀後、うちに来たとき、不適切ながらも父のコンプレックスであったカツラのことを聞いてみた。
"皆、知ってましたよ"と笑って懐かしそうに出張の時のエピソードなどを話してくれた。

おわりに

父はもう居ない。だが、沢山の思い出を残してくれた。まず母との結婚。私と弟の誕生。ウィッグの奇跡だ。
父なき今も思い出される父のコンプレックスは生命の誕生と笑いをもたらしてくれた。感謝の一言しかない。

まだまだエピソードは沢山あるのだが、とりあえず今回はこのへんで締めくくらせてもらいたい。

お父さん、今世界では戦争が起こってるんです。COVID19というパンデミックもあって世界は混乱してるんだけど、それでも何とか生きようと多くの人が必死にもがいています。こんなことになるなんて想像もできないですよね。

明日何が起こるか分からない。世界規模でも自分の周囲でも。それでも希望をもちながら生きて最期を迎えたいです。お父さんのように🍃

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