何となく2020年のまとめー時は失われたか?ー
こんばんは
つんぽです!
今この文章はコタツのぬくもりに包まれながら,紅白歌合戦を作業用BGMにして執筆しています.
2020年中に書き終わるのか,ドキドキが止まりません.
最近,強制的にたくさん文章を書かされるという執筆プレイ状態に陥っていて,自分の文章作成能力のなさを実感している今日この頃です.
溜めに溜めた書類仕事を消化するために毎週1万字以上文章を書いていたら,他のことをやる気力が完全に崩壊してしまいました.文章をコンスタントに執筆している作家さんやライターさんは本当に尊敬しかないです.
作家の西尾維新に代表される多筆・速筆の方たちは,執筆の息抜きに執筆をしているようですが,そのようなマグロのような文章持久力は備わっていませんorz. まずはまぐろのお寿司でも食べて活力をチャージするところから始めたいと思います.
あと,英語の文章を書きたい気分の時と日本語の文章を書きたい気分の時って日によって変わりませんか?
今日は英語の気分だな~っていうときに日本語の文章書いていると,今日はマドレーヌみたいな洋菓子の気分だな~と思ってカフェに入ったら,当店は和コンセプトなので洋菓子は置いてありません,ドヤ焼きで我慢してくださいって言われたみたいながっかり感を感じるのは私だけでしょうか?
まあ,私は基本的に英語が嫌いなので,世界共通語が日本語になってくれないかな~といつも思っているのですが,その願いはかないそうにないですorz
閑話休題
というわけで,気づいたら1年が終わりそうですorz
私は今年の年始はポーランドで悠々EUライフを満喫していたのですが,唐突にポーランド国営放送のイケメンアナウンサーから"今から24時間以内にポーランドをロックダウンする”という強烈なパンチラインをかまされて,急いで飛行機のチケットを取って日本に帰ってきてから,ほとんど記憶がありません.
今年は新型コロナウイルスの影響で,季節感を感じられるイベントが中止になってしまったので,いつも以上に時の流れを感じられず,あっという間に年末になってしまったな~と感じます.
私にとって,季節の移り変わりを感じられない一番の原因はアニメロサマーライブが開催されなかったことだと思います.
私は夏の終わりをアニサマで感じていたので,自分の中の2020年夏はまだ終わっていません.
アニサマが現地開催できる日をいつまでも待ち続けています(o・∇・o)
アニサマだけにとどまらず,ありとあらゆるライブなどのリアル対面式のイベントは中止や制限付き開催に追い込まれました.
そのかかわり,オンラインイベントやオンラインライブがたくさん開催されました.
ライブの参戦形態という話で言うと,「ライブはおうちに帰るまでがライブです!」という言葉があります.
この言葉は非常に正しいとは思いますが,おうち(日常)に帰るまでがライブ(非日常)という意味もあると思います.
はるか昔は,町から遠く離れた芝居小屋に芝居を見に行くために厳しい山道を歩かなければなりませんでした.数時間歩き芝居小屋の輪郭が見えてくるとうっすらと祭囃子が聞こえてきて,期待がどんどん高まってくる.そして芝居が終わって帰るころには夜になってしまい,街灯もないので道に点々と置かれた松明の火を目印にしながら薄暗い夜道を数時間かけて帰る.このような過酷な状況でした.
日常:町
非日常(ライブ空間):会場+山道
という状態なので,ライブ時間が非常に長い状態でした.
現代は公共交通網と社会インフラが発展したので,ライブ空間(非日常空間)は会場内+会場周辺程度になりました.
しかし,ライブ時間を長く取れない代わりに,音響や照明やディスプレイなどの環境構築によって,何とかライブ空間を日常とは全く違う異世界であるかのように演出するという方法で,お客さんを高揚させるという手法をとっています.
私は田舎に住んでいるのでいつもライブには新幹線か飛行機で移動するのですが,田舎民にとっては都会自体が非日常みたいなものなのです.
なので,実は田舎民こそが現代において祝祭を最も楽しめるポジションなのかもしれません.
(行きの新幹線に乗り,ビルが増えていく様子を見ながらテンションをあげて,予想セットリストを聞きながら胸を高ぶらせ,帰りの新幹線で思い出を抱き,徐々に光が消えていく夜景を眺めながら帰るところまで含めてライブって感じがする)
しかし,リアルイベントができない状態だと,日常の中にある普段使いしているディスプレイでライブを映すことになります.
そのため,ライブへの没入感を得ることが難しいです.
そのような状態のオンラインライブを最大限楽しむには,いかに妄想力を全開にして没入するのかということが重要なのではないでしょうか.
ここはライブ会場だ!,俺最前列じゃんやったー!,今日メッチャ目が合うじゃん!これは運命なのでは?みたいなやつです.
今年はニューノーマルという言葉が表すように,日常の当たり前が崩れ去り,全てが非日常になりました.
ということは,このすべてがオンラインライブのための前座なのでは?と日常を全てライブにしてしまうくらいの強靭な思い込み力が試されているのかなと思いました.
こうやって,当たり前だと思っていたものが当たり前ではなかったという実感を持ち,妄想力を研ぎ澄ませておけば,リアルライブが開催できるようになった時に,今までとは比べ物にならない感動を感じられるのではないかと思います.
2020年はこのように何かをぽっかりと失ったという感覚と同時に,当たり前の日常に溶けて忘れていた何かを再発見できたという実感もあります.
そんな2020年ですが,岩波文庫から出版されていたとある本がついに完結しました.
めっっっっちゃ長いあの本です!
そう! プルースト 著 「失われた時を求めて」です.
「失われた時を求めて」は、プルーストが半生をかけて執筆した大作で、長さはフランス語の原文にして3,000ページ以上、日本語訳では400字詰め原稿用紙10,000枚にも及ぶ超大作となっています.
あらすじに関してはWeblioにまとまっていたので気になったら見てみてください.(あらすじ読んでも何が何だかだと思います)
ざあああああああっくりまとめると,
おっさん主人公が家に帰って,幼いころ食べていた紅茶とマドレーヌを食べたら,幼いころの記憶がよみがえってきたーーー失われた時を見つけたぞーーー私の感じたことを小説に書かねば!!!!って感じです.(語彙力がないの...許して...)
プルーストが重要なキーワードとしているのは,「意志的記憶」と「無意志的記憶」です.
時間デザインさんの解説を引用します.
「意志的記憶」とは想起することによってよみがえる記憶のことで、昨日の夜に食べたものだったり、幼い頃に見た映画だったり、受験勉強で覚えた日本史の年号だったりする。これらは知性によって切り取られた体験の断片であり、いま身のまわりにあるものとは違って、過去に属している。私たちは思いを巡らすことでこの記憶にアクセスできるが、それはやがてまた、過去へと埋没していく。
これに対して「無意志的記憶」はとつぜん向こうからやってくる記憶のことで、味やにおいといった感覚的なものがそのきっかけとなる。「無意志的記憶」の特徴は、それが「死んだ過去」ではなく、「生きた思い出」として立ち現れるということだろう。なぜなら、味やにおいといった感覚は、言葉や映像に比べるとあいまいなものではあるが、いま生きているこの身体に生じるものだからだ。つまり、「無意志的記憶」とは知性のはたらきによって振り返るものではなく、感覚を引き金として「これから」語られる物語なのだ。(時間デザイン,失われた時を求めて)
今までは,~のライブのあの曲最高だった!,あの曲の衣装めっちゃ可愛かった,初めてパシフィコ横浜来たけど都会だな~みたいな,トロフィー的・知性的な記憶である意志的記憶をメインにストックしていました.
今年は新たな意志的記憶をストックすることが困難でした.
その代わり,失われた記憶として過去に経験したが忘れていた,無意志的記憶を思い出すことが出来たのではないでしょうか.
いままで当たり前だと思っていた様々なことが実は有ることが難しい,有難いことであったと気づかされました.
真の人生、ついに発見され解明された人生、それゆえ本当に生きたといえる唯一の人生、それが文学である.この人生は、ある意味では、どの瞬間にも、芸術家のなかにも全ての人のなかにも同じように宿っている。ところが人々にはこの人生が見えない。それを明らかにしようと努めないからである。隠して人びとの過去には、役にも立たない無数のネガが溢れている。知性の力ではそれを「現像」できなかったからである.
プルースト 著 ”失われた時を求めて”
知性で感じる意志的な記憶をストックすることが困難になったからこそ,Don`t think fell で心がふるふるしたことを,失われた時からすくい上げて現像することによって,今までの航海日誌が想像よりもずっと輝いた素晴らしい物であったということ.そして,今もその旅が日常に溶けながら続いていることを再発見できるのではないかと思います.
2020年は非常につらい状況でしたが,TrySailの三人を筆頭とした様々なアーティストの素晴らしい作品に支えられてなんとか無事に終わることが出来ました.
2021年もどうなるかはわかりませんが,心のアンテナを鈍らせないように,いろいろなことにTryして,心がふるふるする素敵なことをたくさん発見していきたいものです.
2021年もよろしくお願いします.
怪文書失礼しました.
つんぽ
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