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自分のこと2

おはようございます。
4時に目が覚めた。
小山田壮平がツイキャスでteen'sを歌ってくれた。
まだ眠れないけど穏やかや気持ちです。

TwitterとかInstagram見てて
ふと1年前のことを考えました。

私は3年生の7月まで大学生活協同組合の学生委員会に所属していました。

年に1度の総会後、コロナ禍での引退デシタ!!
その時の心情をInstagramに綴った言葉が以下の通りです。

生協おわった!忘れんうちに今の気持ちを。

同期の学委は、先輩に憧れてという理由で入った子が多いけど、私はめっちゃ適当に入ったのは覚えてる。
自分のためになるかなあ、くらい。
学生生活に決めた大きな理由はあんまり思い出せないけど、たぶんなんかみんな個性的で面白そうだったから。ほんまに面白かった。

1年の時は、ルールが全てと思い込み、生協を理解しようとしてなかった。
2〜3年になって外に出たりしてピリピリすることが増えて、ちょっぴり考えるようになった。先輩の引退式が終わって、委員長と組んで生協の方向を位置付けて動かしていくようになって、着実に見えてくるものが変わったなあ。
端的にいうと生協に対する疑問というか。

生協にいて気づかされたこと。
生活を考えること。協同はその次。
当たり前のことだけど、沢山の人が集えば大きな力にはなる。まあけど同じ方向を向いてるわけではない。
民主主義をこんなに真剣に考えたことはなかった。
風通しの良い仕組みは完全には機能しない。
今でもたまに思うのは、組織の存続が目的になっていることへの疑問。

存続を目的とすることが1つの過程であることも理解はできるけど。
過程の多様さに頭を抱えたり。


社会にとって大学がどういうものなのか。
大学にとって生協はどういう組織なのか。
もっとそこに目を向ける必要がある。
人々の「生活」に視線を向ける。
資本主義社会を生きる私たちは役に立つ人間として消化されるだけ?

私たちはなんのために活動している?
より良い生活のため?
そのより良いは誰にとってどう良いの?
役に立つってどういうこと?
大学は就職のため?
社会の中にある、大きなレールのようなものが正義なのか?
協同することよりも、理想とするより良いを深く探ること。

多くの人が賛同するならそれでいいのか?
多くの人がもつ理想なら、協同して消化していいの?
民主主義は結果ではなく過程に重きをおくことが欠かせないと思うんだな。
生協に必要なのは対話。生活に必要なのは対話。
いろんな人がいる。
それぞれの正義を受け入れ、理解しようとする。
やってあげてるという傲慢さはいらない。
役に立つとか立たないとか、迷惑かけるとかかけないとか。
選択はすべて自分自身がすること。
きっかけを与えるとか言うけど、それって本当に大事なのかな。
今、もがきながはも生協が存在しようとし続けるということは何を意味してると思う?


これからどんな変化を遂げるのかは分からないけど、自分と向き合うための2年半にできてとても良かったと思う!

生協に関わって、自分がする選択や抱く感情に対して真摯に向き合えるようになったと思う。
本当に楽しかったです。
立場を考えてしんどくなる時もあったけど、今思えば立場とかじゃないな。
立場が個人を超えることは何を意味するのかな。それってもう「より良い」を唱えられなくない?

よーわからんことツラツラ言うてるけど素敵な先輩、同期、後輩と出会えたことは本当に幸せ!ありがとう。

想いは代々受け継がれるものかもしれないけど、代々ではなくて、私からの想いをひょろ〜っと託したいな。
自分たちが納得するやり方でその都度対話を重ねることが1番かなと思ったり。
引き継ぎとかマニュアルとか本当はいらないと思ったりする。私はね。

お金なくて出来ることも限られてる。
存在意義も考えるとクラクラする。
それでも、自分の頭で自分の生活を考える。
生きていくしかないから考える。
19で良かったな〜。
わたしはここまでやったけど、もっと深く携わった人はもっといろんな考えを膨らませてるやろうし、これからもお話したいね。はやく会いたいヨみなに。        2020.7


でした!!!!
よく考えていたと思う。当時の私。
今も大して気持ちは変わってない。

 話は変わって、最近「本当に優秀な上司は業務を減らせる人」という文章を見た。極端な話ではあるけどちょっと共感した。

思いつきでやることは簡単。
でも既存のものの在り方を見直して減らすことは難しい。


 私は内在的に「組織の多様性を維持」する人でありたかった。

これはブレッド&バターという漫画の一部です。(またかよ)

組織の中では、その組織のあるべき姿とは別に、「個人の役割」があると思う。

私はよく学委の部会に来ない子達をあげて
「この子らがいたから生協に居ることができた」と言ってました。

大学生として、自分の選択で自由に生きている子らが排除されるような組織に、可能性を見出せる気がしなかったから。
そんな組織がする活動など説得性がないから。

人間は差異を求めるし、差異があるから組織になる。組織として同質的なものを求めてもどこかで差異を見出そうとすると思う。その程度に差があるから悩むんだろうけど。

生協が考えなければならないことは
今も昔も「より良い」の探求だと思います。

自分たちの「より良い」が必ずしも誰かにとっての「より良い」にならないこと。
良いの押し付けを「公的な機関」のフリしてやってはいけない。

学委っていう立場として、じゃなくて組合員として、個人としての、正直な気持ちを。

立場としての行動や意見しか言えなくなっても、その組織のことを好きでいられるほどの無知と没頭が幸せなんだろうか。

今となってはよく分からないけど、私はやっぱり生活があってこその協同だと思う。

自分の生活と向き合う。
立場や属性は、選択を放棄する言い訳にはならない。

当時、色んな選択を放棄した私は、幼かったのだと思いました。

「決める」ことができる人が大人だと思う。
それがどんな選択でも、立場としてではなく個人の選択として責任を持つ。迷いは美しいけど、濁る。

なんでも、人を言い訳にしてはいけないよ
という自分へのメッセージでした。

これはきっと生協に限らずなんでもそうだと私は思います。家族でもサークルでも恋人でも。

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