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MIYAZAWA-SICK 2005 メキシコでのインタビュー

2005年10月のMIYAZAWA-SICK中南米ツアー。メキシコは、ブラジル、ホンジュラス、ニカラグアに続く4カ国目(次はキューバ)。 僕は、メキシコから彼らに合流したのです。彼らはすでに3カ国4公演を終えてのメキシコ。僕はひとり日本からロサンゼルスを経由してメキシコシティへ。ちょうどうまいこと僕が乗ってきた飛行機の到着と、彼らの到着時間が1時間ほどの差だったので、僕は空港で彼らを待ち受けていたのです。

これはメキシコのティオティワカンというピラミッドの上で撮った写真です。で、tatsuさんと高野さんにインタビューした原稿を載せました。メキシコでのライヴレポートはこちらに載せてます。

■ tatsu編

10月15日、メキシコシティでオフ。高野寛さんやtatsuさんらは郊外にあるティオティワカンのピラミッドを見学に。tatsuさんにホンジュラスのライブ(10月9日)について訊いてみました。後半、高野さんも参加しています。

tatsu 最近のMIYAZAWA-SICKは安定感がすごくあって、客によって悪い意味で影響されないというか、自分たちの表現をちゃんとやった上で若干フィードバックを受けて、いかようにも変わる感じ。成熟してきたというか。ちゃんと地に足をつけたままオーディエンスのフィードバックを受けることができる。お客さんがあまりに盛り上がっちゃうと、僕ら時として足下すくわれちゃうんですけど、もうそういうこともなくて。

———そういう状態にバンドがなったのはいつぐらいからですか?

tatsu ヨーロッパ・ツアーを終えてからじゃないですかね。ヨーロッパでひとつ越えたと思います。MIYAZAWA-SICKはアウェイは強いですね(笑)。強くなったと思いますよ。逆にホームの日本がちょっと読めない(笑)。

———これまでの3カ国でいちばん強い印象を受けたのはどこですか?

tatsu ホンジュラスはいろんな意味で衝撃でしたね。あれだけ東京とかけ離れた街に行ったことはなかったんで。ロシアやヨーロッパに行っても、何かしら同じフォーマットがあって、その上で違う街が作られている印象を受けるんですけど、ホンジュラスのテグシガルパは不思議なところでしたね。高地の、山の中に街があるんですよ。メキシコシティも斜面に家がたくさん建ってますが、あれをもっと凝縮した感じで、夜、見ると山肌に灯りがともってきれいなんですけど、みんな貧乏だし、子どもは「ハングリー、ハングリー」と言って寄ってくる。「外に出るのは危険だ」と言われていて、会場の周りにも出ることができなくて、相当みんなナーバスになってたんですが、ライブでのあれだけの盛り上がりは自分のこれまでの経験でもないですね。

高野 「治安が悪い」という情報ばかり聞かされて正直、みんな不安だったんだよね。人が集まるのかな、とも思ってたし。それが気持ちよく覆された。年齢層も今までのライブの中でいちばん若かった。

tatsu 老若男女を相手にやってきたことが多かったけど、ホンジュラスは完璧に若者だった。

高野 ロックバンドがなかなかやってこない国だから、外国から、特に日本からというだけでもみんな興味津々だったみたいで、期待感がライブが始まる前からすごかったですね。


■ 高野寛編

10月15日、メキシコシティで行なった高野寛さんのインタビューからブラジルに関する部分を紹介します。

———去年の南米ツアーと同じく、全員が揃ってのリハーサルはブラジルに到着してからでしたね。

高野 リハーサル初日の2、3曲目ぐらいからかな、すぐに「この感じ、この感じ」って。一日目で全部の曲をおさらいして、ツアーでやってない曲も余分に練習して、二日目にMacollaとニカラグアで演奏する「風になりたい」を詰めて。二日間のリハーサルだったけど、初日のロンドリーナ公演のときはもう充分で。これだけやってると曲が身体に染みついてるから。最初はロンドリーナのあと、サンパウロ公演の前に、もう一日リハーサルが予定されていたんですが、オフになりました(笑)。そのぐらい余裕がありました。

———ヨーロッパ・ツアーと選曲は変えてるんですか?

高野 そうですね、アップテンポの曲が多いですね。踊ることを意識して。僕も含めてそういうメニューが好きなんですね。ラテン出身者が4人いて、主にラテン音楽を得意とするメンバーもいて、みんな生き生きしてますね。気候や人のノリとか、今までにないフィット感をみんな感じてる。あと、言葉(ポルトガル語、スペイン語)が通じやすい。

———ブラジルのライブは日系の方たちの存在を抜きには語れないですね。

高野 冗談抜きで、みんなでブラジルへの移民をテーマにしたドラマ『ハルとナツ』を連日見てたのが大きかったです(※高野寛の中南米ツアー日記10月6日分も参照)。ブラジルは今回のツアーの中でいちばん最後に決まったんですね。中米まで行くんだったらブラジルまで行こうと。ブラジルはこれまでも日系の人たちとの関わりがキーワードになってて、そういう中で、あのドラマを見て、最初に開拓者として行った移民たちの苦労は、こうやってツアーをやってる僕らの気持ちに重なることがあったし、「失われた日本の心」というのが、もしかしたら日系の人たちの方が持ち続けているのではないかと。僕らがやってる音楽は“ジャパネスク”ではないし、そういう意味でロンドリーナやサンパウロ公演に来てくれた日系のお客さんはどういう気持ちで観ていたんだろうと考えたんですが、決して最初から大盛り上がりという感じではなかったんですよ、リアクション的には。でも、前のヨーロッパ・ツアーで、お客さんの反応に翻弄されないという気持ちが特に僕の中にはできあがってきていて、こちらがいい演奏をすれば必ず喜んでくれるはず、という確信をMIYAZAWA-SICKのみんなが持ってる。僕らが開拓しに行ってるような感覚を僕はちょっと味わってました。MIYAがサンパウロのライブの最後に、2008年の移民100周年のときにはブラジルをツアーしたいと宣言したんですけど、今回で重要な足がかりを掴んだ感じですね。

———「沖縄に降る雪」は、沖縄を遠くから想う唄、とMIYAは説明していますが、ブラジルに移民した沖縄の方が故郷を想う歌、と感じてしまうんです。だから沖縄のメロディにブラジルのリズムを乗せてるのかと。

高野 あの曲は日本で演奏するよりもブラジルで演奏するほうがリアリティがあるかもしれないですね。今回のツアーで「沖縄に降る雪」はかなり重要なポイントになってるかもしれないですね。


■ HIKURI編

10月16日、グアナファト。メキシコで「島唄」をカバーしているバンド、HIKURI(ヒクリ)のメンバーが、彼らの町、San Luis Potosiから車で6時間かけてグアナファトのコンサート会場まで宮沢和史に会いに来てくれました! 開演前、HIKURIのリーダー、Joaquin(ホアキン)にインタビューしました。通訳はクラウディアです。

アルゼンチンで「島唄」を歌っていたことがきっかけで宮沢和史に出会い、いまMIYAZAWA-SICKの一員となっているクラウディアはもちろん、ポーランドのトメック・マコビェツキや、ロシアのディアナなど、世界に広がった「島唄」は、世界のどこかで誰かの人生のターニング・ポイントとなっています。HIKURIのJoaquinもそのひとりです。

―――「島唄」を知ったきっかけを教えてください。

Joaquin 日本に住んでいたいとこがメキシコに持ち帰ったCDが「島唄」だったんです。でもそれはアルフレッド・カセーロのバージョンでした。でもあの歌を聴いて、「島唄」はメキシコの人たちにも聴かせなくちゃいけないと思ったんです。平和のメッセージとして、そしてふたつの文化の架け橋としてカバーしました。

―――HIKURIのアルバムには「島唄」が4バージョンも入ってますよね。日本語のカバーの他にスペイン語であったり、メキシコの音楽要素が入っているバージョンがあったり。

Joaquin オリジナルの日本語のカバーの他に、HIKURIの音楽要素も入れたかった。メキシコの革命時代の音楽もミックスされているけれど、メキシコには戦争を語る音楽はそれしかないからです。「島唄」は戦争のことを歌っている。だから、メキシコのその時代の音楽要素をミックスしたかった。

―――HIKURIのメンバーには日系人がいますが、そのことと「島唄」をカバーしたことと関係ありますか?

Joaquin それはあまり関係ないです。「島唄」を日本語で歌い出した頃から、歌詞の意味を知りたいというファンの声がたくさんありました。それは言葉がわからなくても何かを感じたということだから、オリジナルのそのままの歌詞を伝えたかった。

あの歌詞以上に付け加えて伝えるべきものはないです。

―――最後に、宮沢と先ほど初めて会った感想を教えてください。

Joaquin この日をずっと待っていました! 僕らのバンドは、いま「島唄」を演奏することが中心になっています。僕らの町、San Luis Potosi(メキシコ北部にある)を歩いてると、「Cancion de la isla(島唄)!」と僕らは呼ばれますし、コンサートでも「日本語で歌ってください」と言われます。そのぐらい「島唄」はHIKURIにとってなくてはならない曲です。その作者のMIYAZAWAさんに会えたので感動しました。


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