サヨコ 『Undertone』インタビュー(1999年)

かすかに耳を澄ませると聞こえてくる音=アンダートーン。フルボリュームの低音命なレゲエから、静かなる地低音ダブへとトリップした、サヨコのニューアルバムに宮沢和史は2曲を提供。しかも今回はプロデュースも担当。となればエセコミでのインタビューもマストでしょう。音楽家、そしてダブ仲間の宮沢和史とお似合いのコラボレーションを続けるサヨコに訊く、スペシャル・インタビュー。

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サヨコ=東京生まれ、埋め立て地育ち。80年、当時15歳で女性だけのニューウェイヴ・バンド「ZELDA」のボーカルに。96年までの17年間で10枚のアルバムをリリース。THE BOOMとは1993年「ニライカナイ祭り」(沖縄)、94年「カルナヴァル」(大阪)で共演。THE BOOMの「18時」(シングル・ヴァージョン)にコーラスで参加。


———11月のライヴがすごく良かったんで、ぜひ話を聞いてみたかったんです。リトルテンポのメンバーにHONZIというダブ最強の布陣。3月のライヴよりずーーっと良かったですね。

サヨコ そうですね。あの時は混沌としてたし、久々のコンサートだったから今までの流れを見せたいというのがあったし、途中経過というか最近の報告みたいなライヴだったから。今度はHAKASEがサウンド・リフォームを徹底的にやってくれた。それがすごく良かった。

———バンド感がありましたね。筋が一本通っていて、気持ちいい。

サヨコ 私はやりたいことがあっても音でみんなに示せないんで、こういう感じってHAKASEに話をすると、HAKASEもそういうセンスを持った人だからいいねえって。例えば今回のアルバムのテーマである「アンダートーン」。聴いてくれとばかりに力任せに歌う、勢いで歌うという唱法だけでなくて、いかに小さい声で均等にきれいに声が出せて表現できるかという。なおかつポップスの枠をはずそうというところで、歌を補強してくれる音が少なくなってきてる。そうなると歌がすごく難しくて、表現するのに精一杯とか。でもこの前のライヴで自分のやりたいことがすごく見えてきたんで、次のツアーでやれたらいいなあって。

———はい。ところで僕、いろんなミュージシャンにインタビューしてるんですけど、サヨコさんと話す時は今でも緊張するんですよね。それは僕が中学の頃に、サヨコさんはすでに活躍していて、雑誌とかで名前を見て一方的に知ってた人なんで、何度お会いしてもその頃の印象が強くて……。サヨコさん、デビューは中学生の時なんですよね。MIYAも高校の頃、ZELDAの曲をカヴァーしてたそうだし。

サヨコ でもそれは宮沢君がキーボードをやっていたバンドであって……。って聞いたけど。宮沢君が私の歌を歌うなんてちょっと想像できないんですけど。

———一昨年、極東ラジオにゲストで出た時に、MIYAから「ブラジルいいよ」って言われてましたよね。

サヨコ ええ。そう言ってもらって。

———それと、その時のキーワードが「ダブ」。MIYAとサヨコさんはダブ仲間だそうで。あの時点で今回のアルバムのコンセプト「ダブ」というのは見えてたんですか?

サヨコ そうですね。レゲエがすごく好きになって、それをそのまま表現してきた時期があったんだけど、自分の中でレゲエを進化させるとダブとかアンビエント系のものだったりして、レゲエって何が気持ちいいかって、やっぱり揺らぎ、揺れが気持ちいいなと思って。で、それを今、自分の音の中で考えると、イギリスの北の方のブリストルとかの感じで。マッシブアタックを生で観て、打ちのめされちゃって。あの人たちも港町のブリストルで、自分たちの音楽を作ってきたわけでしょ。ジャマイカのレゲエは最高だし、今でも大好きだけど、東京に住んでる自分があのジャマイカのレゲエをそのまま日本でやるのって違うと思うので。環境にも影響されて音が出てくると思うんですね。それが本来の音楽じゃないかな。

———どこそこの世界に憧れるというのはミュージシャンには絶対あると思うんだけど、でも自分のオリジナルは何かを探し始めると、サヨコさんの場合は埋め立て地であるとか、ニューウェイヴを経由したレゲエやダブなんですよね。

サヨコ そうですね。「埋め立てレゲエ」って感じかな(笑)。だって本当にそうじゃないですか。レゲエのビートって山に反響して聞こえてくるような音だけど、東京だったら太鼓叩いてもコンクリートに反射してくる。楽器ひとつひとつとっても空間で音が変わってくるでしょ。それが自分なりの居場所っていうことで、音の響き方だと思うんですよね。揺らぎっていうか、揺れっていうのもやっぱり都会にいると足早になってくし、テンポが上がるし、そういう環境の違いがある。埋め立て地なんか工事の音が一定に聞こえてきたりして埋め立て地特有のファクトリー・サウンドとでもいうのかな。自分の耳にはダブに聞こえるとか、レゲエに聞こえるとか、そういう感じなのかな。そういうのないですか?

———ドイツの人にはテクノに聞こえたりね。ところで、サヨコさんが最初にTHE BOOMとコラボレイトしたのは、朝本さんのダブですね。「18時」のコーラス。

サヨコ そうですね。あとテレビで「風になりたい」で参加させてもらった。でも宮沢君がドレッドにした頃とか全然知らなかったんですよ。雑誌で見かけて、あ、眼が綺麗な人がいるなっていうか、色素の薄いペール・ブラック・アイズだなって。あとやっぱり喜納昌吉さんの『レインボー・ムーブメント』が大きくて。あの時にぐーっとソウル・フラワー・ユニオンとかも集まってきて。

———1993年ですね。あのレコーディング、イベント「ニライカナイ祭り」は面白かったですね。沖縄で。

サヨコ 集まってちょっと一時期一緒に過ごしてあっという間に散っちゃったけどね(笑)でもそれでいいと思う。今も徒党組んでたら気持ち悪いっていうか、喜納さんに魅力を感じて集まって交流したということだから。

———どう考えたって徒党組むのがキライな人たちばっかり集まりましたからね。

サヨコ どっちかというとはぐれものばかり。あの沖縄でのTHE BOOMのステージに私、呼んでもらって。その時にね、気がついたらステージ上で宮沢君と私の世界がバキッと5秒ぐらい止まったんですよ。絡んでたのね。歌ってて。宮沢君が下にいて、その上に私が覆い被さって。それがもう……。あの時はすごく強い印象だった。終わった後、楽屋で宮沢君に言ったら、宮沢君は別に何も感じてなかったみたいだけど(笑)。私にはあれがすごくグッときて……。

———じゃあ、それをこのインタビューの見出しに!

サヨコ いやいや(笑)。

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———MIYAがサヨコさんに書いた最初の曲は「夢の旅人」ですよね。

サヨコ 「夢の旅人」と「SPIRITEK」ですね(※1995年、ジャマイカ・レコーディングのアルバム『MI LUV YU』に収録。その後、2004年、宮沢自身が『SPIRITEK』で2曲ともセルフカヴァーする)。

———この曲を依頼した時はどういうふうにイメージを伝えたんですか?

サヨコ 「夢の旅人」の時は電話でお話して、アジアのフィーリングのレゲエをやりたいって。「SPIRITEK」はもう一曲できちゃったからどう?ってプレゼントしてもらって。

———アジアのレゲエというと、「夢の旅人」はまさにリクエスト通りの曲ですね。

サヨコ そうですね。まさにそう。すごく綺麗な素敵なデモテープで。

———「帰ろうかな」とか「berangkat」と同系列の曲ですよね。アジアのミクスチャーで。僕も大好きなんです。

サヨコ 最近のCDでもそういうの入ってません? 数え歌みたいな曲(→「ごはんがたけた」)。宮沢君はいつか「宮沢メロディー」みたいな感じでああいう曲を集めてアルバムを出して欲しいですね。50代ぐらいにでも。

———20年後に?

サヨコ うん、彼は本当に「宮沢メロディー」を持っていると思う。すごく独特なもの。その宮沢メロディー「島唄」で一生分の仕事をしてるっていうか。そんなこと言ったらイヤかもしれないけど。

———イヤでしょう(笑)。

サヨコ でもあの曲を作ったのはすごい。沖縄の子どもとかおじいちゃんとかおばあちゃんが大好きって言って歌ってるわけだから。なかなかできることじゃないよね。例えば私がジャマイカでレゲエの大ヒット曲を出すようなものでしょ?

———そうですよね。……「夢の旅人」「SPIRITEK」の次が、「SPIRITEK」をMIYA自身がリミックスするというものでしたよね(※1995年、リミックス・アルバム『mi luv dem』に収録)。ブラジル・ボッサのリミックスで。

サヨコ 気持ちよかったですね。すごい! すごいなーって思いました。爽やかで気持ちがいい。

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———ソロ2作目『PeeP』(1997年)では「MIX UP」と「空にはばたいてゆく日」をMIYAが書いていますが、この時のサヨコさんのリクエストは?

サヨコ 最初に「空にはばたいてゆく日」が来たんですよ。当時、私はロンドンにいたんですけど、ジャズ・テイストの曲だなあって思って。もう一曲はエスニックな感じの曲が宮沢君のテイストでもあり私のテイストでもあるんで、書いてもらおうと思って。それが「MIX UP」になって。

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———ライヴでの、サヨコさんがクラリネットを吹くヴァージョンもいいですね。

サヨコ 宮沢君は『PeeP』の中では「空にはばたいてゆく日」がいちばん良かったって。

———僕もあのメロディーがすごく好きです。

サヨコ プロデューサーにカルリーニョス・ブラウンとかブラジルのCDを渡して聴いてもらって、ブラジルのテイストを出したかったんですけど、ジャマイカにはそういうブラジリアン・テイストのパーカッショニストがいないんですよ。ジャマイカの人は日本よりもブラジルへのイメージが豊かじゃないかも。

———『Undertone』(2000年)の2曲「水晶のビーズ」「夢の玉ゆら」はレゲエというオーダーではなかったんですよね・

サヨコ これは宮沢君だけじゃなくて、他の人たちにも最初に話したんですけど、ニューウェイヴを経由してのレゲエ、ダブをやりたいって。

———それはある意味、MIYAと同じですよね。

サヨコ うん、そうですね。で、あの、ダブかな。ひと昔前はやっぱりちょっとマニアックだったり、極端な音楽だった。でも最近ジャンルを越えてダブしてる人っていっぱいいるし、だから極東ラジオに出た時(97年)にダブの話をしたのは私も印象に残ってたんですよね。

———今回、今までの曲と違うのはMIYAがプロデュースまで担当してることですよね。プロデューサーとしてのMIYAはどうでしたか?

サヨコ 宮沢君は本当にきちんとしてる人だなって。仕事がちゃんとしてる。熱心だし、とても我慢強いし、余計なことがない。

———僕はロンドンでのレコーディング(『Sixteenth Moon』)で初めてレコーディング中のMIYAを見たんですけど、集中力が本当にすごいですよね。一回スタジオに入るとトイレに行く以外は作業してる。

サヨコ そうですね。その集中力にびっくりして、で、なおかつ彼は曲も書くし、楽器も弾くし、歌詞も書くし、ボーカリストでもある。いろんなことができる能力ある人だなって思ってたけど、素晴らしいプロデューサーですよ。

———「プロデューサー宮沢和史」というのはTHE BOOMファンもあまり知らない面だと思うんですが、全体を把握し、ジャッジメントする役なんですよね。

サヨコ そうですね。それももちろんだし、あと、一日のうちに、歌に限らずプレイヤーもその人の最高のノリってあるけど、それを逃がさない。ちゃんと聴いてて、いたずらにダラダラやらない。歌のアドバイスも的確ですね。全然疲れたり、飽きたりするような気持ちにならなかった。それはプロデューサーとしてすごいですね。なんか先生に見えてきちゃって。

———(笑)。

サヨコ ガラス越しに宮沢君が眼鏡かけていたから。

———怖かったですか?

サヨコ ううん、そういうんじゃない。先が見えるっていうか可能性のある人だなあって。あんまり下手なこと言えないんだけど(笑)。すごい音楽家だなあって。今まではステージでのMIYA君というイメージが濃かったけど、一緒に仕事をしてから、今度のCDを聴いても宮沢君の仕事ぶりがすごくわかる。ボーカリストという以上に音楽家だなあって感じましたね。やってることに責任感があるっていうか、筋が通ってる。それは朝本君にもHAKASEにも感動したから、今回はうれしかったなあ。

———でもそんな3人が集まってくれたのもサヨコさんの魅力であるわけだから。

サヨコ うーん、ただ長くやってきただけ。途中途中でいろんな人に出会ったから。朝本君なんて20歳くらいの頃から知ってるから。「『朝本君』なんて呼ぶ人、今もういない」って言われた(笑)。

———その『Undertone』の聴きどころをここでひとつ。

サヨコ THE BOOMファンにはやっぱり宮沢君の……。うーん、難しいですね、喋るのは。

———朝本さんのことだってエセコミ読者はよく知ってるし、HAKASEのファンだっていっぱいいますよ。YAMAちゃんも弾いてるし。

サヨコ あー、そうです。YAMAちゃんと高野(寛)さん。でもあっという間だったからなー。一日だけだったから。鶴来さんも一緒にやってくれて。ミックスしてる時にね、鶴来さんと宮沢君と3人でビョークのビデオを見てたんです。ライヴビデオなんですけど、すごーく良くて。やっぱりこういうのをやりたいなって思って。宮沢君は素晴らしい音楽を書きたいよねって言ってましたね。

———ではその調子で『Undertone』の聴きどころを、ここでひとつ。

サヨコ 今まで私もエセコミ読者と同じように旅が好きで、旅先で出会った音楽に夢中になって表現してきたりしましたけど、今は自分の中での旅がすごく楽しい。自分の中を旅してる時に気持ちがいい響きとか揺らぎとか、そういうひそやかな声、アンダートーンというものをダブ仲間たちと探したアルバムなので、みんなぜひその世界を感じてください。


※エセコミ33号(1999年)より転載。

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