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THE BOOM 年代記 1989-1997

『THE BOOM LIVE DVD BOX』 Vol.1、Vol.2(2005年発売)のブックレットに書いた文章。『PICK ME UP』(1990年)から『TROPICALISM-0° LIVE』(1997年)まで映像作品ごとの解説という形ですが、アルバムごとの展開、エポック・メイキングな出来事がわかるよう、THE BOOMの年代記としても読めるテキストになっています。約1万6千字。


PICK ME UP

渋谷公会堂 1990年2月11日、12日

 この『PICK ME UP』はTHE BOOMにとって初のライブビデオ。1989年5月21日のデビュー以来、THE BOOMにとって82本、83本目のライブである1990年2月の渋谷公会堂でのステージを収録している。

 渋谷はデビュー前、アマチュア時代のTHE BOOMのいわばホームグラウンドだった。1987年7月以来、彼らは毎週日曜、雨の日も風の日も代々木公園横の歩行者天国(ホコ天)でライブを続けてきた。片道二車線合計四車線の道路が歩行者天国に代わる正午から、休憩を挟みながら夕方まで、30分ほどのステージが5、6回開かれる。最初の頃の観客は通りすがりの十数人だけ。しかし、秋が過ぎ、冬を越える頃には、THE BOOMの演奏のもとには遠くから見てもすぐわかるぐらいに観客が大きな輪を作るようになった。彼らはホコ天でのフリーライブの他にも、La mamaやEgg-man、今はなき渋谷LIVE INNなど渋谷のライブハウスにも出演し始めた。デビュー後も何度かホコ天でライブを行なっている。そんな渋谷でもっとも大きな会場(=目標)といえば、渋谷公会堂だった。

 THE BOOMにとって初めての渋谷公会堂は1989年9月17日。チケットは発売後3時間で売り切れとなった。ロビーにはデビュー前にホコ天で使われていたピンクのドラムセットが展示され、舞台にはトランポリンとビニール製の像が置かれていた。その後、何度も伝説的なライブが行なわれることになる渋谷公会堂での初ライブは「SUPER STRONG GIRL」でスタートし、全22曲、最後は客電がすべて点いた状態でマイクなしで歌った「愛のかたまり」で幕を閉じた。

 この『PICK ME UP』に収録のライブは、全国38カ所をまわる“サイレン・ツアー”での渋谷公会堂2 DAYS(1990年2月11日、12日)。ツアー・スタートの一ヶ月前にはセカンドアルバム『サイレンのおひさま』がリリースになっている。アルバムの冒頭には、“この森には音楽で世界を変えようとしている4人組がいるが騙されるな”と、森の怪物を集めて警告する魔女の語りが挿入されている。“音楽で世界を変えようとしている4人組”とはもちろんTHE BOOM自身のことだ。ホコ天時代の明るく激しいイメージの曲を集めたファーストアルバム『A Peacetime Boom』と違い、1989年6月に北京で起こった天安門事件をテーマにした「気球に乗って」や、人類の近未来に警鐘を鳴らす「ダーリン」、死を見つめた「晩年—サヨナラの歌—」など、時代を反映し、内省的な歌詞を持つ曲がこのアルバムには収められている。以下が“サイレン・ツアー”直前の宮沢和史の言葉。

「みんながライブを観終わって、『うーん』って思っちゃうようなライブをやりたい。ライブが、その人の生活や考え方や感情を左右してしまうような、問題を投げかけてしまうライブ。ライブの後に『今日は楽しかったね、汗かいちゃった』で終わらない、人間の喜怒哀楽に影響するやつ。何だっていいんだけど、これじゃいけないって思う問題意識みたいなもの。そういうのって前向きなライブだと思うんです」

 この『PICK ME UP』には残念ながら収録されていないが、この日のオープニングには、「数日前にできたばかり」という「GOOD NIGHT」という新曲(この曲はこれ以降披露されていない)が弾き語りで歌われている。スカ・ナンバーに続いて歌われた「釣りに行こう」は、このライブの数日前に、宮沢の憧れのミュージシャン、矢野顕子と新たにレコーディングされたばかりの曲。後半の再びのスカ連発(「おりこうさん」の曲間にそのときそのときのTHE BOOM内流行曲を挟むのもこの時期からの伝統)、最後にリリースされたばかりのセカンドアルバムから「気球に乗って」までは一直線の流れ。楽しかっただけでは終わらない「何か」をライブに模索し始めたTHE BOOMの姿がパッケージされた、もっとも初期の貴重な映像作品である。


いつものボクたちが、いる。

日本武道館 1990年7月26日 

 THE BOOMが初めてホコ天で演奏した日からちょうど3年目の1990年7月26日、THE BOOMにとって初の日本武道館ライブを収録した作品。「いつものボクたちが、いる。」というタイトル通り、武道館とはいえ「いつものTHE BOOM」のペースでできるよう、アリーナの真ん中にステージを作り、観客席が360度それを取り囲むような設定。これは武道館ライブの10日前に久しぶりに行なわれたホコ天ライブ(シークレット)と同じである(なお、THE BOOMは武道館1週間前にも、ボクシング会場として知られる後楽園ホールで、リングの位置にステージを設置して観客に周囲を囲まれる環境でのライブを行なっている)。

 THE BOOM初の武道館ライブに集まった観客は11,222人。ステージに続く長い花道を通って武道館のステージにTHE BOOMが現れ、まずは右まわりにステージを一周し挨拶。ドラムは背中合わせに2セット。マイクスタンドも四方に立っていて、メンバーはドラムセットを中心に四角いステージをぐるぐると走り周りながら歌い、ギターを、ベースを弾き、コーラスする。序盤はスカ。中盤はアコースティック・コーナー。事前に告知されていたこともあって、「虹が出たなら」ではリコーダーを持参した観客たちと大合奏になった。最後の「気球に乗って」までこの日の演奏曲は以下の25曲。

ないないないの国/FISH DANCE/オレンヂジュース/きっと愛してる/なし/町の郵便屋/君はTVっ子/星のラブレター/中央線/僕がきらいな歌/晩年—サヨナラの歌—/僕はぬけがらだけおいてきたよ/釣りに行こう/虹が出たなら/SUPER STRONG GIRL/都市バス/ミ・ソ・ラ・SKA/逆立ちすれば答えがわかる/おりこうさん/雨の日風の日/(アンコール)ウキウキルーキー/モンキーマン/CHICKEN CHILD/不思議なパワー/気球に乗って

 武道館ライブの数週間前、THE BOOMは初めて沖縄を訪れている。目的はサードアルバム『JAPANESKA』のジャケット撮影。沖縄を撮影地に選んだのは「昔から残っている日本の風情みたいなものを撮りたかった」という漠然とした動機からだったのだが(タイの穀倉地帯も候補地としてあがっていたという)、この沖縄行きがTHE BOOMにとって大きなターニング・ポイントとなった。沖縄本島北部、ヤンバル(山原)と呼ばれる地での撮影の間、宮沢和史はバスの中で一篇の歌詞を書き上げた。“おくら畑にうめといた……”で始まるこの詞は、琉球音階とスカをミックスした曲の上に乗り、「ひゃくまんつぶの涙」という歌になった。これがTHE BOOMにとって初めて沖縄民謡を取り入れた曲である。

「『ひゃくまんつぶの涙』は沖縄に対する僕の気持ちを込め、材料としてだけ沖縄のメロディを使うのではなく、沖縄の心に僕なりの言葉“愛と死”を溶かし込みたくて作った」
「阿波踊りとか沖縄の音楽って、ジャマイカのスカに結構似ているなと、以前から思ってたんです。合いの手の入れ方やら、シャッフルのリズムやら、独特の高揚感やら。スカはその後ロックステディ、レゲエへと発展していきますよね。じゃあ、沖縄民謡や阿波踊りが、もしもジャマイカのような土壌で育ち、発展していったらどうなるんだろうと、僕なりに『JAPANESKA』でシミュレーションしてみたかったんです」(宮沢和史)

 デビューから約14ヶ月での武道館ライブはTHE BOOMにとってもちろん到達点ではなく、その後に続く旅のスタート地点だった。沖縄と出会い、自分たちならではの音楽の模索を始めたTHE BOOMは2ヶ月後に“TOUR JAPANESKA”という新たな旅に出発する。


13800km 出前ツアー'91〜'92

 サードアルバム『JAPANESKA』リリース直後の1990年9月にスタートした“TOUR JAPANESKA”は全73カ所。73カ所といえばもう日本全国、かなり隅々まで訪れたといっても言い過ぎではないくらいの量である。このツアー後半の数日間のオフに宮沢和史は沖縄を訪れている。

「ひめゆりの塔から国道332号線沿いに少し歩くとサトウキビ畑があった。沖縄ならどこにでもある、何の変哲もないサトウキビ畑だ。僕たちは日が暮れるまでのわずかな時間、その畑の中にポッカリ開いた壕(ガマ)に入って過ごした。生と死。それは、太陽の国、リゾート地沖縄、などとのイメージを植え付けられてきた僕たちには重すぎるキーワードだった」

 さとうきび畑の中にぽっかりと開いた防空壕が訴える無言の悲しみと、地表に根を張る植物の力強い生命のエネルギー。沖縄への旅で宮沢が見たこの光景、地下と地上のコントラストが、後に「島唄」を生んだモチーフとなった。

 沖縄との出会いをきっかけにさらに南へ目を向け始めたTHE BOOMは1991年4月、タイの首都バンコクへと飛んだ。雨期のバンコクでレコーディングされたのは、後にニューアルバムに収録される「子供らに花束を」と「きょうきのばらあど」の原型となった2曲。

「十日間いろんな出来事やカルチャー・ショックが僕を飽きさせなかったが、一番心に残ったバンコクの印象は、人々の生き方、生活態度だった。たった十日間だからたぶん表面しか感じとれなかったはずだし、本当のところは何もわかっていないかもしれないが、第一印象としてはそれを強く感じとった。特に屋台で働く子供たち、町の中で一日中寝ている犬たちに強くそれを感じた。彼らは生きるために生きている。僕らのようにムダなことをしてムダな金で時間をすごすのではなく、まさに生きるために生活していた。その姿がとても美しく僕に映った」(『セイフティ・ブランケット』より) 

 タイからの帰国後、宮沢は「SPIRITUAL」という言葉を何度も口にしていた。「例えばジミー・クリフやジャニス・ジョップリンのような。肉体と精神が分離しないで真に直結している状態、歌」。レゲエと沖縄がTHE BOOMの音楽にとって重要な要素となった。

「今までの俺の歌作りの手法っていうのは、最後をあえてハッピーエンドで終わらせずに悲観的にすることによって、みんなが襟を正したり、“やべーな”って奮起してくれたらいいなっていうやり方だったんだけど、これからは素直に希望とか展望とか、そういったものを歌にしていきたい」「人を奮い立たせるような作品を作りたいね。自分自身もボロボロ涙を流して、なおかつ踊ってるような、そういう感じになりたい」

 1991年のツアー“出前ツアー”はロックバンドが来たこともない町をのんびりとまわって新しいファンと出会ってみたい、そんなTHE BOOMメンバーの希望により企画された。事務所に届いた「私の町まで来てください」という数百通の手紙の中から44カ所の会場が決定した。“TOUR JAPANESKA”からさらに地方の小都市へと足を向けたTHE BOOMに、デビュー以来彼らを撮り続けていた写真家・郡司大地がビデオカメラマンとしてツアー全行程(13800km)に同行した。『13800km 出前ツアー'91〜'92』はこのツアーのライブ、移動風景、インタビューを収録したドキュメンタリーだ。ステージ衣装もそれまでのスカ風の細身なスーツを脱ぎ捨て、ヒッピー風のファッション、そしてタンクトップにジーンズというほとんど普段着の状態へと変化していった。「おりこうさん」の間奏では、ボブ・マーリィやジミー・クリフといったレゲエ・シンガーの曲が引用され、また、“引き裂かれたシャツ/破れた心/気が狂った子供”などといった重量級のフレーズが挟み込まれた。次のアルバム・レコーディングのための新曲リハーサルはツアー中、ライブの開演前にも繰り返され、レコーディングはツアーと並行して進められた。その後、アルバムを発表するごとに言われる「THE BOOMは変わった」という言葉が、しきりに使われるようになったのもこのツアーの頃からだった。


'92夏祭り at 大阪万博記念公園お祭り広場

大阪・万博記念公園 1992年8月8日

 1992年1月、THE BOOMは4枚目のアルバム『思春期』を発表。沖縄やタイ、ジャマイカ(「子供らに花束を」と「そばにいたい」はキングストンでミックスしている)への旅、矢野顕子、友部正人、喜納昌吉らさまざまなミュージシャンとの出会いなどによって芽生えた問題意識がこのアルバムには込められている。ジャケットの黒・白・黄の3色でできた旗は“地球の旗”として描かれた。

「体はって作りました。ふりしぼれるだけの力を出したつもりです。気合い入れて聴いてください。ケンカするつもりで聴いてください」(宮沢和史)

 アルバム発売直後にスタートしたツアー“SPECIAL”にも強烈なメッセージが込められていた。開演前の会場には香が焚かれ、ステージに垂らされた幕には、世界中の子どもたちの顔がバリやグルジア、チベットなどの民族音楽にあわせて上映される。廃墟の島に立つTHE BOOMメンバーの映像にカイロの街のざわめきが重なった瞬間に幕が落ち、「思春期」の重いギターが鳴り響くという衝撃的なオープニング。そして、“自由に、THE BOOMからも自由になってください”と宮沢和史が歌うのだ。沖縄でのライブでは喜納昌吉&チャンプルーズがゲスト出演。郡山では矢野顕子と共演している。

 アルバム『思春期』のブックレットの最後のページに「何かを始めよう ここから出て行くために 何かを捨てよう大きなものを手にするために」という言葉が記されているが(そして、最後の曲「サラバ」というタイトルのように)、THE BOOMはこのツアー終了後、活動停止状態に入る。

 1992年8月8日、大阪・万博記念公園で行なわれた“THE BOOM夏祭り”は活動停止直前のTHE BOOMにとって第一期最後のプロジェクト、とも言えるが、実はこのイベント数日前まで、宮沢はシンガポールで行なわれていたディック・リーのオペレッタ『ナガランド』のリハーサルに参加していた。THE BOOMをアジアに導いたシンガポールのミュージシャン、ディック・リーと宮沢は1992年3月、雑誌の対談で出会った。テーマは新しいアジア人のアイデンティティと音楽。この対談がきっかけで宮沢はディック・リーがプロデュースするオペレッタに、アジア各国から選ばれた出演者の中で日本からの唯一のキャストとして参加することになる。ミュージカル初体験に加えて、このプロジェクトでの共通語である英語を流暢には話せないなど、宮沢にとっては苦労も多いプロジェクトだったが、彼らとの約4ヶ月に及ぶ共同作業によって(日本での14公演の他、シンガポール、香港公演が行なわれた)、「上を向いて歩こう」(坂本九)のような、時代も国境も越えた歌を作りたいという、音楽を作り始めた頃からの思いを強く再確認した。また、ディック・リーの他にもアンディやジュディス、フェビアン・レザ・パネなど、THE BOOMの次のアルバムやツアーに参加することになる人たちとの出会いが生まれ、友情が育まれた。

 “THE BOOM夏祭り”に集まったファンは約11000人。太陽の塔を背にした万博記念公園の特設会場ではTHE BOOMのライブの他に、ミニコミ・マーケット、コピー・バンドの演奏、クイズ大会などファン参加の企画、各メンバーのソロ・ユニットのコーナーなどが次々に行なわれた。半年以上かけて準備された、THE BOOMプロデュースによる笑顔にあふれた夏の祭典だった。彼らが次に集結するのはこの6ヶ月後となる。


FILMs

 THE BOOMとしての活動停止明けの1993年2月にスタートしたツアー“気に入った曲ができたから”は、バラード曲を中心とした、THE BOOMにとって新基軸となるライブだった。矢野顕子、坂本龍一、ヒートウェイヴ、ポリスなどのカバー曲の他、各メンバーがそれぞれボーカルを取るコーナーもあった。キーボードには『ナガランド』で共演したフェビアン・レザ・パネが参加(2公演のみモーガン・フィッシャー)。『FILMs』に収録の「島唄」や「月さえも眠る夜」はこのツアー、渋谷公会堂での映像だ。

 この時期、思いがけない現象が起きていた。沖縄での「島唄」の爆発的なヒットだ。「いつか、自主制作テープとしてでもいいから沖縄で発売して、沖縄のおじいちゃん、おばあちゃんから子供まで、多くの人に聴いてもらいたい」という宮沢の願いから、アルバム『思春期』に収録された「島唄」とは別のウチナーグチ・ヴァージョンが作られた。そのシングル盤は1992年12月にようやく沖縄限定でリリースされることになったが、泡盛のコマーシャルソングに起用されたことも手伝って、沖縄で記録的な大ヒットとなった。1993年6月には、オリジナル・ヴァージョンの「島唄」シングルも全国でリリースされ、100万枚を超える売り上げを記録し、「島唄」現象とでも呼ぶべき大ブームが起こった。ビデオクリップ「島唄」(ウチナーグチ・ヴァージョン)は、沖縄で映画を撮り続ける真喜屋力監督、中江裕司監督らパナリ本舗による制作で、「島唄」を歌う沖縄の人たちの表情から構成されている。オリジナル・ヴァージョンの「島唄」は、宮沢のアイデアにより竹富島で撮影されている。

 1993年8月には5枚目のオリジナルアルバム『FACELESS MAN』をリリースした。前年に宮沢が参加したディック・リーのオペレッタ『ナガランド』、この氾アジア的なプロジェクトこそ、宮沢和史を、そしてTHE BOOMをより高い地点へと飛翔させるきっかけとなった。『ナガランド』で宮沢が観た風景、感じたジレンマ、手にした表現力、人脈などのあらゆる要素がアルバム『FACELESS MAN』や、そのツアーに投入されている。THE BOOMの多ジャンルにまたがる音楽世界を一望できるこのアルバムにはさまざまな種類のタイプの音楽が存在し、多数のミュージシャンが参加している。「いいあんべえ」には沖縄民謡の唄者、我如古より子が参加。同曲の別ヴァージョンは沖縄の海岸でレコーディングされ、チャンプルーズのメンバーも加わって沖縄に伝わる“毛遊び”(もあしび)を再現している。「真夏の奇蹟」ではディック・リーがシンガポールでコーラスを加えた(ビデオクリップはタイのバンコクで撮影されている)。同じく『ナガランド』で共演したフィリピンのシンガー、ジュディスは「幸せであるように」でボーカルをとっている。体育館で一発録りされたこのレコーディング風景も『FILMs』には収録されている。

「自分にはルーツなんかないんだから、僕に顔はいらない。僕が体験してきたこと、好きな音楽、旅した場所、出会った人、そういうものを全部コラージュしてDJになりきったというか」(宮沢和史)

 ジャンルも時代も国境も越え、「違った環境に生きる、どんな国の人々の心にも響く歌」、つまり究極の「うた」を求めたTHE BOOMの世界への旅がスタートした。


"FACELESS MAN" LIVE

日本武道館 1994年1月13、14日

 1993年にリリースした5枚目のアルバム『FACELESS MAN』はTHE BOOMの新境地を見せる作品となった。沖縄音楽、ガムラン、レゲエ、ゴスペル、ラップ、ブルース、フォーク、ロックなどさまざまなジャンルにまたがる多種交配音楽。

 インタビューで、宮沢は次のように話している。「本当のTHE BOOMのルーツというのはこれから先、未来にあるような気がして。そういうルーツ探しというか、自分たちが本当に心から信頼できるリズムや音楽というものを見つけるために、音楽をどんどんやりながらあちこちまわって。ずっと実験実験で試行錯誤しながら、ぶつかったりケガしたり転んだりしながら4人で運命共同体としてやっていくんじゃないでしょうか。そのうち『これだ!』と言えるものを4人で掴んでにんまりする日が楽しみでしょうがないんですけど」。

 久保田麻琴、喜納昌吉&チャンプルーズ、我如古より子、ディック・リーらとの共同作業で、バンドの枠をとっぱらった楽曲群は、これまでの「この4人で音を出すからTHE BOOMなんだ」という約束事をぶっち切っている。このアルバムの中でさらに宮沢は“手に触れたものは全てリアリティ”と歌う。拠り所のないことが拠り所。「確信」の音はこれまでのどのアルバムよりも力強い。 

 1993年9月からスタートしたツアーは全26カ所。前年に宮沢が参加したディック・リーのオペレッタ『ナガランド』で知り合ったフィリピンのアンディーとアーノルドや、南流石、CRAZY A、KOJI、CHINOと6人のダンサーが加わり、コーラスに前田康美、パーカッションに伊藤直樹、ホーンに竹上良成と有澤健夫、キーボードに朝本浩文という総勢15名がステージにひしめく、ミュージカル的要素も含んだ一大エンターテインメントとなった。

「まず、僕が今回のアルバムの構想を練ったのは去年(1992年)の夏ぐらいからなんですけど、実際にはディック・リーの『ナガランド』の仕事があったのでそれと並行していろいろと構想を考えあぐねていたんです。(中略)アジアということにこだわったわけじゃないけど、ステージで演るときはビジュアルにもタイとかバリとかの感じを取り入れて、聴いてるお客さんをどこか異空間に連れていくような世界が描ければいいなあ、とか。アルバムの構想を練ると同時に、ステージのことも考えていたんです。(中略)いちばん根にあるのは、ホール・コンサートに対するコンプレックスを解消することだったんです。僕らはホールのコンサートって得意じゃないなあとずっと思ってたんです。広いんだか狭いんだかよくわからないし、ライブハウス的な乗りでは通用しないし。ほんとは僕はバンド台があればどこでもロックができると思ってる人ですから、マイクとアンプとスピーカーさえあれば今でもホコ天でやれる自信はあるんですけどね。だから今回は一度あのホールのステージの長方形を隅から隅まで演出して——僕ひとりでやるわけじゃないですけど——とことん計算してやる喜びみたいなものを一度味わってみたかったんです。まあ『ナガランド』をやったというのが大きいと思うんですけど」(宮沢和史『R&R NEWSMAKER』1994年1月号)
「(ダンスは)どんな色もついてない独自な活動のダンサー、南流石さんにまず頼んで、でもヒップホップ的な要素も欲しかったからCHINOたちを呼んで、さらに『ナガランド』で一緒だった、クラシックのダンスで磨き上げてきたアンディーの力を借りて、三つ巴になったらどうなるんだろう、ひょっとしたら面白いかなって。そのへんは勘ですけどね。そしたら案の定だった。お互いが苦笑いしながらも結果的には見たことのないダンスになった」「『思春期』までは誰の血も入れたくなかった。ホーン・セクションのような自分たちでできないものは入れてきたけど、自分たちの曲は自分たちでやるというのが美意識だった。でも『ナガランド』の影響もあるのかな、人とやりたくなった。共同作業の喜びがわかってきた。僕はやっぱり自分で、一目も二目も置いてる人とやりたい。そういった人が入ることによって予知できない嬉しいハプニングみたいなものをいつも期待しちゃうんだよね。みんな本物だからぶつかりあったら絶対面白いわけだし。それは勝算があってのことだからね」(宮沢和史『BOOM BOOK 5』)

「最初から、最低でも武道館の大きさを想定していた」というこのツアーのファイナルは日本武道館での二日間。開演前にはアジア各地の民族音楽をサンプリングした宮沢自作のSEが流れ、オープニングにはバリ島の寺院を模したステージに、老人役一人と子役二人のダンサーが演じる“祈りの儀式”が新たに追加されていた。『"FACELESS MAN" LIVE』は日本武道館での二日間を中心にこのショーでの演奏曲全曲を収録している。

 アルバムでもツアーでもオープニング・ナンバーである「いいあんべえ」は、バリ島のガムランとケチャ、ジャマイカのラガマフィン、沖縄音階とウチナーグチが一曲の中にこれらすべてがチャンプルーされている。宮沢は「これからTHE BOOMが歩いていく道筋が一本見えたような、光がパッとさしたような曲」と評している。1993年の年末にリリースのリミックスアルバム『REMIX MAN』では、バングラビートの第一人者、バリー・サグーがこの曲をリミックスしている。1980年代、イギリスのアジア人コミュニティから生まれ、ルーツと現代、西洋と東洋をハイブリッドし、進化していくバングラビートと、THE BOOMのチャンプルー・ミュージックがまさにミックスされたトラックとなった。

 また、宮沢はこの年、ツアーの合間、初のソロ・プロジェクトMIYA&YAMIのレコーディングのためにジャマイカ・キングストンに飛んだ。1991年、「そばにいたい」のミックスダウンでキングストンを訪れた際に知り合ったレゲエ・シンガー、YAMI BOLOとのコラボレーション。キングストン滞在中に「神様の宝石でできた島」など4曲をレコーディング。そのシングル、ミニアルバムは94年春にリリースとなった。

「MIYA&YAMIは、僕の愛するレゲエをYAMIと作ってみたいなという、クリエイターとしての欲求っていうかな。今後も僕はこういうことをたぶんやっていくだろうな。『神様の宝石でできた島』はビッグヒットではなかったけど、レゲエがチャートにのったなんて、YAMIにとっても僕にとってもすごく嬉しいことだったね。この曲ができたときに何かやれるなっていうか、別に白人や黒人にコンプレックスを持つ必要がないなって、いい意味での開き直りみたいな確信を得たね。『神様の宝石でできた島』は僕とYAMIでしか作れなかった曲だと思うんだ。これがあったからTHE BOOMの次のアルバム『極東サンバ』もGO!って自分の中で思えたし、こういうスタンスを持てば、ブラジル音楽を取り上げてもきっと表面的なもので終わらないだろうなと。それは『島唄』でも確認できたんだけどね」(宮沢和史『BOOM BOOK 5』)

 このジャマイカのレコーディングの後、立ち寄ったキューバのハバナで、宮沢は街にあふれる音楽に大きな衝撃を受ける。

「日本は言うまでもなく島国だが、今、この島に響くリズムとはいったい何なのだろうか。ジャマイカにおけるナイヤビンギのハートビート。キューバにおけるクラーベのリズム。沖縄の乾いた空気につきぬける三線の音色。そう、生活と人々の心と大地とが共鳴し合うリズム、時間をも超越して、永遠に鳴り続ける音色。日本というアジアの島に生まれ育った僕達にとってのハートビートとは、いったい何なのだろうか。僕達はそれをさがし出さなければならない」(宮沢和史『音の棲むところ』) 


極東ツアー

大阪城ホール 1995年3月18日、19日

 1994年5月、宮沢和史は初めてブラジルを旅した。この旅の少し前、THE BOOMはブラジルへの憧れを歌ったサンバ「carnaval—カルナヴァル—」 をレコーディングしている。前年のキューバ、そしてこの年のブラジルという二つの地への旅と前後して、宮沢の心にサルサやサンバ、ボサノヴァなどのラテン・ミュージックへの憧れが生まれ、THE BOOMは南へと向かった。1994年11月にリリースの6枚目のアルバム『極東サンバ』のジャケットでTHE BOOMはこのような宣言をしている。〈至福の瞬間を一度でも多く味わうために 僕らはキャラバンに乗ることにした 終点は誰にもわからないが 右手に東京タワーが見えるから どうやら南へ向かっているようだ〉

『極東サンバ』は、最近僕の聴いてる音楽が、ジャマイカにしろ、キューバにしろブラジルにしろ、地球の反対側のものが多くて、僕はそれをやってみたいと思ったのが始まりです。でもそのまんまの模倣はしたくないから、リズムとか音の構築とか演奏の仕方をもとにしながら、日本人や日本にいる外国人たちの手で、東京という場所で響かせてみようと思ったんです。東京でみんなが踊れて、いちばん気持ちよく解放されるリズムが、僕らにもできないかなと、そのヒントがサンバにあるような気がします。僕は考えるんです。僕を含め、男、女、ちっちゃい子からおじいさん、おばあさんまで、そして在日外国人も入れて、みんなで一緒に、この場所で何が歌えるんだろうかって。カエターノ・ヴェローゾ(ブラジルのシンガー)が言ってたんですけど、「エルヴィス・プレスリーのコンサートで何千人集まっても、きっと観客の10パーセント、20パーセントくらいしか一緒に歌えないだろうけど、ブラジルは違う。ブラジルだったら、古いスタンダードの難しい曲でも、たぶん全員歌えるだろう」。彼がそうインタビューで答えてるんです。僕はこれが羨ましくてね。実際、僕がブラジルのリオで観たライブでも、酒を飲みながら、ある種の祭りというか、観客みんなが歌っちゃうんです。シンコペーションだらけの難しい歌をね。僕ら東京や日本で暮らしてる人間に、そういう一緒に泣いたり笑ったりする、あるいは酒うめぇな〜といった状況は、いったいどこにあるんだろうかって思う。こう言っちゃうと後ろ向きっぽく聞こえちゃうけど、そんな場を僕らは作りたいし、そんな曲を作って歌いたいんです。一人がひとつのことをまっとうして、大人数でひとつのものを作っていく。サンバやキューバ音楽ってそうでしょ。誰か一人の力でもないけど、大きな渦になっちゃう。そんな音楽が東京や日本だけじゃなく、世界の人にも届くように。(宮沢和史『極東ツアー パンフレット』)

 全41公演の“極東ツアー”のツアー・メンバーはチト河内率いる打楽器隊CHITO CHANGOを含む総勢16名。ツアーの後半、ファイナル公演の直前、THE BOOMの4人はブラジルへ飛び、カルナヴァルを体験した。

 キーボーディスト、モーガン・フィッシャーは“極東ツアー”中に綴っていた日記をツアー後に上梓した。大阪城ホールでのファイナル公演、そのハイライトのシーンをモーガン・フィッシャーはこのように記している。

「風になりたい」の後半、ユニオン・サンバを含む総勢32人のバンド・メンバーが、パーカッションを叩きながら客席の中へ入って行った。完全なカオス状態。通り過ぎる僕らに触れようとして、ロープを飛び越そうとするファンを、警備の人たちがあと数センチのところで制止する。僕は観客を焚きつけるように叫ぶ。彼らも負けずに叫び返す。MIYAのシャツがはぎ取られそうだ。ホール中央、サウンド・ミキサーのちょうど後ろにたどり着いた。MIYAがボックスの上に飛び乗り、腕を振り上げる。興奮は絶頂に達する。周りはライトとカメラ。会場全体が狂乱と化す。1万人のダンスと手拍子。まるで明日はもう来ないかのように。今福(健司)くんがMIYAの隣りでジャンプして、ピンクとグリーンの明るいタンボリンを指一本で回す。ステージ上の巨大スクリーンで何が行なわれているかを知った観客から、歓喜の声が上がる。MIYAが飛び降り、僕らをステージまで先導するが、彼に触ろうとするファンの手で分断されそうだ。MIYAは本当に楽しそうだ。ステージに戻った。サンバのリズムは続いている。ここがリオのカーニバルだったら、僕らは一晩中歌い踊り続けるだろう。でもここは大阪。終わりにしなければならない。充分に堪能した。曲は既に15分も伸ばされていた。ミザリートのホイッスルが、長く2回鳴らされた。そして演奏が終わった。バックステージに戻っても、喝采で何も聞こえなかった。(モーガン・フィッシャー『極東ツアー日記』)  


BRASIL

 宮沢和史にとって初のブラジル行きは1994年5月。同年11月にリリースの『極東サンバ』に収録された「Human Rush」「TOKYO LOVE」「It's Glorious」、また、シングル「帰ろうかな」のカップリング曲「五分後」もこのリオデジャネイロ滞在中に書かれた。その他にもブラジルへの憧れを歌った「carnaval—カルナヴァル—」やサンバの「風になりたい」、ボサノヴァの「Poeta」、ポルトガル語での歌に初めて挑戦した「HAJA CORACAO」など、『極東サンバ』はTHE BOOMが初めてブラジル音楽にトライした記念すべき作品となった。

 1995年2月にはTHE BOOMメンバーとカルナヴァルを体験。そして9月にはブラジル北東部のバイーア州・サルヴァドールを訪れ、バイーアの音楽イベント“フェスティン・バイーア”の主催者に自らTHE BOOMの出演を交渉した。1996年2月には『Samba do Extremo Oriente』というポルトガル語のタイトルで『極東サンバ』をブラジルでリリース。そして、5月には遂に、THE BOOM初のブラジル・ツアー“Samba do Extremo Oriente”が実現した。

 出演時間を過ぎても楽器が空港から届かないというアクシデントにより、出演順が急遽、最後の出番となった“フェスティン・バイーア”前夜祭を含め、バイーア州の州都サルヴァドールでは2公演。リオデジャネイロではゲストにシモーネ・モレーノとペペウ・ゴメスが参加(前年、東京で開かれた彼らのコンサートにはTHE BOOMが参加している)、サンパウロでは現地の日系人たちにも熱く歓迎された。

 宮沢はすべてのライブ日程が終了後、THE BOOMがカバーした「砂の岬」(ブラジルのスタンダード・ナンバー)の舞台となったミナスジェライス州オーロプレート、チラデンチスを旅した。これらブラジルでの約2週間の旅全てがこの『BRASIL』に収録されている。

 サンパウロでのライブはまさに奇跡的な夜だった。トム・ジョビンの名を冠した会場でのコンサート。会場には日系人の若者を中心に多くの人が集まった。最初の音が出た瞬間から、会場は沸騰したかのような興奮状態。メンバーも観客のパワーに相乗してボルテージが上がっていった。リオに続いてシモーネ・モレーノとペペウ・ゴメスがコンサートの中盤に登場。ふたりだけのコーナーもあり、ペペウのガット・ギター伴奏によるサンバと、バイーアを歌ったチンバラーダの持ち歌の2曲が演奏された。シモーネの表現力も神懸かり的だった。シモーネが話す。日本で生まれた友情をブラジルで再確認できてうれしい、と。

 「島唄」の浸透ぶりは想像以上。想像以上、というよりブラジルで「島唄」を待ち望んでいる人がこんなにいるなんてまったく予想していなかった。コンサートが始まってすぐに、客席からたどたどしい大声が飛んだ。「『島唄』をお願いしまっす」という日本語でのリクエストだった。「砂の岬」で宮沢が三線を持った瞬間に、客席が「島唄だ、島唄だ」とざわついた。そんな状態だったから、会場のボルテージはあのイントロで頂点に達してしまった。「島唄」とわかったときの、会場の大興奮。それはまさに奇跡的なできごとだった。地球の反対側の街で指笛が吹かれ、カチャーシーが始まり、大合唱がおこるなんて。ブラジル最後の曲は「そばにいたい」。サンパウロの街中を満たし、アマゾンを渡り、アンデスを越えていくような力強く、美しい歌声。またサンパウロでコンサートを開きます、と宮沢がステージで何度も叫ぶ。THE BOOMへの歓声、拍手は鳴りやまない……。


TROPICALISM-0° LIVE

 『極東サンバ』リリースの翌1996年7月に発表したアルバム『TROPICALISM-0°』には前作ではなかったブラジル北東部バイーアの音楽の影響を感じさせる「TIMBAL YELE」「Call my name」「手紙」を収録。サンバの「Samba de Tokyo」や、ボサノヴァ「街はいつも満席」(ブラジル・ミナス出身のギタリスト、トニーニョ・オルタが参加)、ミルトン・ナシメントのカバー「砂の岬」など、ブラジルからの影響が大きく反映されたアルバムとなっている。

 アルバム・タイトルの「トロピカリズム」はカエターノ・ヴェローゾやジルベルト・ジルらブラジルのミュージシャンたちが1960年代後半に興したムーブメント「トロピカリズモ」へのアンサー。実際に前年のブラジル・ツアー中に宮沢はカエターノ・ヴェローゾをリオのコンサート会場に訪れ、カエターノ本人に『TROPICALISM-0°』のライナーを書いてもらうよう交渉している(残念ながら実現はしなかった)。 

 よく「次はどこへ行くんですか?」って聞かれるけど、それもおかしな話ですよね。だって僕は「砂の岬」で「島唄」を超える沖縄への愛が注げたと思うし、「トロピカリズム」でもウチナーグチを喜納昌吉さんと一緒に、より突き詰めていくことができたし。沖縄に触れたばかりの頃もブラジルと同じように最初は憧れで、何を見てもどこに行ってもよく見えてしまう。でもそういう時期を越えると嫌な部分もいっぱい見えてくる。「島唄」に対してバッシングする知識人も何人かいたし。でも僕はそれを知っても全然気分が悪くなったりしなかった。なぜなら、民謡酒場に行けば、おじいちゃんが歌ってくれてるから。そっちのほうが僕には支えだった。そういうのを全部経て、僕なりの沖縄との付き合いがだんだん深まってきた。沖縄との関係は、他の土地、ブラジルやジャマイカと付き合っていく上でも自分の中で参考になっていますね。(中略)だからこそ『TROPICALISM-0°』のようなアルバムをぜひ作りたかったんですよね。憧れや第一印象だけで終わっちゃうと、「THE BOOMは今度はラテンにいきました。じゃあ次は?」なんてことになりかねない(笑)。どこでもそうだけど、憧れを通り過ぎると怖さとか難しい問題とかが見えてくる。そこを越えたところでもう一枚、さらに濃い作品を作りたかった。結果的に前よりもラテンだっていうのがはっきりわかりにくいと思うんですね。聴く人にとっては。僕の中では、今度のアルバムのほうがラテン色が強い。「漁火」も日本のメロディみたいに聴こえるかもしれませんけど、実はブラジルの偉大な作曲家の影響を受けている。「夢を見た」もそうですし。(宮沢和史『BOOM BOOK 6』)

 “TROPICALIZE TOUR”はアルバム『TROPICALISM-0°』の楽曲を中心に全国39カ所をまわったツアー。このDVDは1996年12月19、20日大阪城ホール、12月23日福岡国際センター、1997年1月7日名古屋レインボーホール、1月13、14日日本武道館でのライブを収録している。

「今僕らを支持してくれてる人たちを大事にしたい。ファンの人たちとはもちろんですけど、まわりにいる仲間たちとも互いにもっと理解し合う時間がほしいし、絆をもっと深め合いたい。単純に船(THE BOOM)の大きさを広げていきたいっていう気持ちは全然ないんですよね。このプロジェクトなら賭けてもいいってみんなが思えるような曲をもっと書きたいし。だからいつも船にたとえますけど、言ってみれば僕は舵取りなんですね。海図を見ながら、船を操縦して。燃料を入れる人もいれば、お客の世話をする人もいる。その客船の操縦席には僕ら4人がいて、いろんなプロフェッショナルな方々と一緒に力を合わせて、初めて船が動くわけですから。で、乗客がお客さんなんでしょうね。やっぱり船を大きくしようっていう目標よりは、次はどっちに進もうとか、とりあえずこの船旅をゆっくり味わおうとか、ここは一気に飛ばそうとか、そういう話し合いを大事にしていきたいですね」

 “TROPICALIZE TOUR”ツアーのパンフレットには「最近、僕らを支えてくれるファンの人々もTHE BOOMのメンバーなのだと強く感じている。僕らの行く先には大きな大きな大陸があるに違いない。その旅はもう始まっている」と記されていた。

(いつか続きを書きます)

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