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【日常20】京都・奈良旅🧳談山神社

談山神社由緒

飛鳥・法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌子(後の藤原鎌足)が、藤の花の盛りの頃、当社本殿裏山で極秘の談合をされました。
『多武峰縁起』によれば、「中大兄皇子、中臣鎌足連に言って日く。鞍作(蘇我入鹿)の暴逆をいかにせん。願わくは奇策を陳べよと。中臣連、皇子を将いて城東の倉橋山の峰に登り、藤花の下に撥乱反正の課を談ず。」と記されています。この談合により、皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という歴史的偉業を成し遂げられました。
多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり「大化改新設合の地」の伝承が残りました。現在の社号の「談山神社」もここからきています。
天智天皇8年(669)10月、鎌足公の病が重いと知った大皇は自ら病床を見舞い、後日、大織冠内大臣という人臣の最高位を授けられ、藤原の姓を与えました。藤原氏は、ここから始まります。鎌足公の没後、墓は摂津国 阿威山(現在の大阪府高槻市)に造られましたが、白鳳7年(678)唐より帰国した長男・定慧和尚が鎌足公の遺骨の一部を多武峯山頂に改葬し、十三重塔と講堂を建立して妙寺と称しました。さらに、大宝年(701)方三文の神殿を建て、鎌足公の神像を安置しました。これが談山神社の始まりです。

祭神藤原鎌足公のご長男定恵和尚が、唐から持ち帰ったと伝わる『談峰如意輪観音菩薩坐像』は明治時代に神仏分離令にて妙楽寺が談山神社に変わったあとも、大切にお祀りされてきました。現在は、長谷寺の僧をお迎えして神仏習合の祭典を行っています。祭典のある6月と7月は特別開帳をしており、秘仏を間近で拝むことかできます。『談峰如意輪観音菩薩坐像」は足の甲に、怪我をした人の身代わりになってできた傷があり、足腰健脚の利益があると厚い仰を集めています。

引用:tanzan.or.jp

談山神社
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