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【日常25】京都・奈良旅行 🧳 聖林寺

聖林寺の創建は古く、奈良時代の和銅5年(712)に、談山妙楽寺(現 談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が建てたとされています。
幾度か火災に遭い伽藍が焼失しますが、江戸時代中期、大神神社の神宮寺の一つ、平等寺の僧侶・玄心律師が再興。以後、神宮寺との交流が深くなり、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺は真言宗の律院として明治時代まで栄えることとなりました。

聖林寺

もとは「遍照院」と称していましたが、享保年間(1716~1736年)に妙楽寺の大僧正・子暁によって「聖林寺」と改称。
同じ頃、聖林寺の文春は女人泰産を願い、大石仏造像の願をかけて諸国行脚の旅に出ます。4年7ヶ月に及ぶ托鉢による浄財を集め、現在の本尊である子安延命地蔵を建立しました。
安産・子授け祈祷の寺として、その霊験は広く知られるところです。

本尊

慶応4年(1868)、神仏分離令による廃仏毀釈を逃れるため、大神神社の神宮寺「大御輪寺」の本尊・十一面観音立像が、住職大心上人によって聖林寺に移されました。それが現在、聖林寺に安置されている国宝、十一面観音立像です。

760年代に東大寺の造仏所で造られ、その願主は智努王(天武天皇の孫)とする説が有力です。
かつては四天王に守られ、前立観音の他、左右に多くの仏像が並び立ち、背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳の中にまつられてきました。
宝相華唐草の光背(奈良国立博物館に寄託中)は、長い年月により大破していますが、華やかで見事なものであったと想像されます。
均整のとれた仏身、豊満な顔立ち、量感のある上半身、優婉な纏衣の美しさ、微妙な変化をみせる指先等、ミロのヴィーナスとも比較される仏像彫刻の優作です。

十一面観音立像

色白の肌に三日月型の眉、紅が残る唇が特徴的な、大きなお地蔵さま。
江戸時代中期、この寺の僧 文春が女人泰産を願い、造像しました。
寺伝では、文春の3人の姉が幾度も出産で難儀したと伝えています。今のように医学の進んでいない時代にはお産で苦しむ婦人がこの界隈にも多かったのでしょう。文春は大石仏造像の願をかけ、自身で作った木彫りの地蔵を背負って諸国行脚を行い、4年7か月かけて托鉢で浄財を集めました。
造像にあたり、地蔵菩薩が文春の夢枕に立って自ら仏師を指定したといい、文春は地蔵菩薩が指定した但馬の石工を探し出し、3人の石工が数日かけて完成させたと伝わります。

引用:https://www.shorinji-temple.jp 🔌

子安延命地藏
聖林寺
聖林寺

子安延命地蔵様のお顔がとても優しくて、素敵です。

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