妖怪 魚女

トシオは真面目一徹な男だ。タバコも酒もたしなまず、賭け事もしない。
唯一の趣味は、本を読むことである。
女付き合いも地味で、過去につきあった女が1人いたが、すぐに振られた。
母親のたっての願いもあってトシオは見合いをし、1つ年上のマチコと知り合った。
マチコは特別に別嬪ではないが、快活で気立ての良い女だ。
一緒になれば、楽しく暮らすことができそうだし、いずれ年老いた母親のことも、マチコがめんどうを見てくれるだろう。トシオはそう考え、マチコと結婚した。

日曜の朝、マチコが淹れたコーヒーの香りが、アパートの狭い台所に漂っている。トシオは新聞に目を走らせながら、パンをかじる。休日の朝、ゆっくりと新聞を読むことが、トシオの楽しみなのだ。
コーヒーを味わうでもなく、機械的にカップを口元へ運び、すすっている。
平日は夫婦で話をする暇もない。マチコはこの時とばかりと思うのか、次から次へとトシオへ話しかけてきた。
トシオは新聞から目を離さずに、マチコの話を遮った。
「君の世間話は、どうにも聞いていられないね。結論から先に話してくれないかな」
女というのは、どうしてこうも他愛のないことを話し続けることができるのだろう。
トシオはふぅとため息をついたが、マチコの顔色が変わったことには気づかなかった。
新聞の連載小説を読み終えたトシオがつぶやいた。
「ふうむ。俺も釣った魚には餌をやらないな」
「釣った魚に餌やらない、ってなに?」
マチコは、トシオのつぶやきに聞き捨てならないという様子で尋ねた。
「あぁ、ここにそんな男と女の話が載っているのさ」
トシオは相変わらず、紙面に目を落としたままだ。
「ふうん。わたしも釣った魚、ということになるのかしら」
「まあ、そういうことになるのかな」
トシオはやっと顔を上げて、呑気な調子で答えた。
マチコは何か言いかけたが、立ち上がると空になった自分のコーヒーカップだけを流しに置いて、部屋から出て行った。

梅雨も明けたある寝苦しい夜、トシオはふと夜中に目が覚めた。
首に汗をかいている。シーツがじっとり濡れていた。
こう暑くては、クーラーでもかけなければ熟睡できそうにもない。
クーラーのリモコンを探そうと、トシオは手を伸ばした。ぬるっとしたものが手に当たる。トシオは半身を起こして、隣で寝ているマチコの方へ手をのばした。
何か固くて尖ったようなものが、指先に触れている。起き上がって、部屋の電気をつけた。
目に飛び込んできたのは、先が細く尖った魚の背ビレだった。マチコほどの大きさの黒い魚が横たわっていて、鱗が灯りに反射して光っている。魚の下に敷かれたシーツは、ぐっしょりと濡れていた。
魚は丸い目を見開いて、トシオを睨みつけた。口を開けたり閉めたりして、ぐふぐふと笑っている。
「わたしは釣られた魚よ」
魚の口から、マチコの声がした。
トシオは目をこすりながら、目の前の魚を茫然と眺めた。
「トシオさん、釣った魚には餌をやらないって言ったわよね」
トシオは、魚が少し膨らんで、大きくなったように思った。半開きの口には、ノコギリのような歯が生え揃い、光っている。
「あなたが私にちゃんと餌をくれないなら、いずれ私はあなたを食べてしまわないといけないわ」
魚はさらに大きく膨らみ、ぐいと口を開いて、トシオに迫った。口の奥から、血生臭い匂いがする。
トシオの身体はブルブルと震えだした。
「わ、わか、わかった。ご、ご、ごめんなさ…」
そう言いながら、トシオは失神した。

台所のカーテンをシャッと開ける音がする。トシオはふらつきながら起き上がり、台所へ入った。夏の朝の強い光が射し込んでいる。
マチコがきっちりとカーテンをまとめながら、「おはよう」と振り返った。トシオはマチコの顔をまじまじと見つめたが、やはりマチコだ。
「そんなに見つめてどうしたの。コーヒー、淹れるわね」
マチコはニッと微笑んだ。
その口元に綺麗に並んだ歯が、ぎらりと光った。

(月刊ふみふみ第10号「妖怪」 2019年7月初出)


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