クローゼット

夫と過ごす25年目の正月は静かだ。成人した息子たち2人は、家にいない。
夫はお節をアテに酒を飲みながら、リビングでテレビを見ている。依子は、机の上の年賀状の束から1番上にあった1枚を取り、立ち上がってリビングを出た。
手にしている年賀状には『暖かくなったら一度会いませんか。ミズキ』とあり、携帯の電話番号が記されていた。
依子は寝室に入り、クローゼットの扉を開けた。整理箱の中から1つの小箱を取り出し、蓋を開ける。その中には24枚の年賀状が丁寧に重ねられていて、差出人はどれも『杜川ミズキ』である。携帯の番号を素早くメモし、今年の年賀状を重ねて小箱の中へ入れた。

依子が大学へ入った年の4月、桜は見事な満開で、構内はサークル勧誘のチラシを配る学生で賑わっていた。
「役者、募集中でーす」という声につられて、依子はそちらへ顔を向けた。1人の女子学生が、依子に近づいてきた。
「私、ミズキって言います。見学だけでも」
短髪で浅黒い肌、女子の割にはガッチリした身体つきで、大きな口に大きな眼の造作だ。「狙った獲物は逃さない」と言わんばかりの気迫がある。依子は彼女の勢いに押されるように部室へ行き、そのまま入部した。
ミズキの演技は、心の悶えを包み隠さず表しているようで、激しい。
「スポットライトを1回浴びると、病みつきになる。ただのエエかっこしいのヒトタラシだわ」と、ミズキは笑う。
この人の眼は笑っていない。依子はいつもそう思った。
彼女の眼の光は、どうしてこんなに寂しげなのだろう。
その眼差しに吸い寄せられるように、依子はミズキに恋をした。
芝居の稽古では、新人の依子に監督から何度もダメ出しが出る。
「何を表現したいのか。何も伝わってこない。もっと裸になれ」
落ち込む依子に、くくっとミズキが笑う。
「私とやっているように、やればいいじゃん」
裸のまま、ベッドの上でミズキは、煙草に火をつける。
ミズキとセックスする時、舌や手の指だけでなく、使える依子の全身で、ミズキの身体のあらゆるところに触れ、交わった。ミズキが反応し興奮する時、自分の身体にも同じことが起こっているかのような錯覚に陥り、ミズキと自分との境界がわからなくなる。その境界の狭間に、若い依子は溺れた。

依子は、電話番号が書かれたメモをスカートのポケットに押し込んだ。小箱を整理箱へ戻し、クローゼットの扉を閉める。
大学卒業後、ミズキと生涯を共にしたいと強く願ったが、ミズキから一方的に別れを告げられた。依子は男性とは結婚したくないと、親にカミングアウトする勇気がなかった。結婚をせっつかれて、30前にようやく見合い結婚をしたのが、今の夫である。
依子がリビングへ戻ると、夫はテレビを見ながら1人で笑っていた。

4月になってミズキと逢った。年月の分だけ肌が焼け、顔には皺が増えている。
依子の好きだった眼差しの光が消え、少し痩せて疲れているように見えた。
遅いランチをすませ、店を出る。折角だから近くの公園の桜を見に行こうと、ミズキが言い出した。平日の夕方の公園は、人影がほとんどない。
桜の開花が早かったせいか、散り初めの樹もある。満開の桜の樹の下にベンチを見つけ、ふたり並んで腰をかけた。
肌寒い風が微かに吹いて、薄ピンクの花びらが2、3枚、降ってくる。
突然、依子は肩を抱き寄せられた。
「ずっと逢いたかった」
依子の顎がミズキの顔に引き寄せられて、唇の上に生あたたかく柔らかいものが重なる。依子は身体を固くしたままだった。
「ごめん」ミズキは依子から身体を離し、座り直した。
依子は「うん」とだけ答えた。
また風が桜の花を揺らし、パラパラと花びらが降ってきた。
ミズキは自分の肩にかかった花びらを払い、つぶやいた。
「私と別れて男と結婚したら、依子は子どもが産めると思ったんだ」
依子は前を向いたまま、唇を噛みしめた。
夕暮れの風が依子の頬を撫でる。花びらがまた1枚、ゆっくりと地面に落ちた。

(月刊ふみふみ  vol.12  『性愛 ~疼く~』2019年9月  初出)

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