遠くに春雷が聞こえる。もうすぐ蘭子が、私の部屋へやってくる。予報では、夜から雨模様のようだ。
いまだに蘭子は「イズミ、愛してると言って」とせがむ。『愛してる』という言葉に、蘭子は安心するらしい。
私が愛しているのは、蘭子だけなのに。せがまれるたびに、私は『愛してる』を繰り返す。
蘭子は職場の2歳年上の先輩だ。私の入社当時から、憧れの頼れる存在だった。仕事以外のことでも何かと相談に乗ってもらい、私は可愛がられていた。私には3年つきあい、結婚まで考えた彼がいたが、結局別れた。別れて1年経ってもくすぶっていた私の気持ちを癒すように、蘭子は優しく聴いてくれた。
私は卓上の一輪挿しに真紅のバラを飾り、夕飯の支度をしながら、3年前に蘭子と初めてバラ園に出かけた時のことを思い出す。

5月のあの日、とっておきの場所なの、という蘭子の誘いでバラ園へ出かけた。
蘭子は車の運転がうまい。男前な思い切りのいいハンドルの切り方をする。
運転しながら蘭子は、唐突に私に質問した。
「バラは真紅が好き。バラの花言葉、知ってる?」
スマホで検索してみると『赤いバラ―熱烈な恋』とあった。
私は運転に集中する蘭子の横顔を見つめながら、彼女こそ真紅のバラのようだと思った。
「今日から助手席は、イズミのものだからね」前を向いたまま、蘭子がつぶやく。
イズミのもの、と言われたことに嬉しくなった。
「ねぇ、私とつきあわない?イズミのことがずっと好きだったの」
私は少し驚いたが、自分でも意外なほどすんなりと蘭子の告白を受け入れた。
私たちの仲は、職場では秘密だった。

雷音がまた遠くに聞こえる。窓の外を見ると、雲行きが怪しい。
今夜は赤にしよう。私は一輪挿しの横に、ワイングラスを2つ並べた。
一輪挿しのバラの芳香が鼻腔の奥へ滑り込んでくる。蘭子の香水の匂いと似ている。
初めて蘭子と寝たとき、男性とのセックスとは違う快感が、私を包んだ。彼女の身体が放つバラの香りに、私は痺れるように酔った。蘭子は私の耳を軽く噛みながら、囁いた。
「イズミの過去の傷は、私が癒してあげる。新しい恋人ができて今は幸せです、と彼に手紙を書いたら?自分の手で自分の過去に、決着をつけるのよ」
その翌日、私は別れた彼に手紙を書いた。

職場では見せないが、私にだけ見せる蘭子の顔がある。
「3年つきあえば、彼に勝てるかしら。イズミの思い出はすべて、私との時間で塗りつぶすの」といつも口を尖らせる。その表情がたまらなく可愛い。
そして私は『愛してる』を繰り返して、彼女を抱きしめるのだ。
愛してるよ。貴女だけを愛してる。今夜は、その3年目だよ。
浮かれた気分で窓の外を見ると、夕暮れの黒い空に稲妻が走った。

待ちわびた呼び鈴が鳴る。私は玄関の扉を開け、蘭子を招き入れた。蘭子は玄関に立ったまま「話があるの」と切り出した。近くで雷が鳴った。
一呼吸おいて「私はイズミをこれ以上、騙していてはいけないと思う」と続けた。
私は、蘭子が何を言っているのか分からなかった。
「他にカノジョができたの。一度だけホテルにも行った」
半年ほど前から蘭子と約束をしようとして、何度か断られたことがあった。
そういうことだったのか。私はやっと合点がいった。
多分、一度だけ、なんかじゃない。ずっと二股をかけていたんだ。
頭の中が真っ白になった。心臓の鼓動が早くなり、息苦しくなってくる。
「助手席は、もうイズミだけのものじゃないから」
蘭子はそう言い放つと、玄関の扉を開けた。
蘭子が私の視界から消え、扉がゆっくりと閉まる。私は倒れるように部屋へ入った。
稲妻が空を分けるように光り、轟音が響きわたった。
カノジョにも、愛してると言って、と乞うているのか、この裏切者。
私は唇を噛みしめ、一輪挿しのバラをつかみむと、床へ投げつけた。
花の首が折れ、花がつぶれた。棘が刺さった指先から赤黒い血が流れる。床に散った花びらの上に、滴り落ちた。
(月刊ふみふみ 第8号「嫉妬」 2019年4月 初出)

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