【誰かを助けたいし力になりたいのカラクリとその先】
「人生は変わる」身をもって体験したことがある。
「誰かを助けたいし、力になりたい」
長いこと上記の病に侵されてたし、
そのことで得られるメリットも甘い汁も存分に堪能したし、イタイ目にもあったりした。
「わたしの考えが〜、」
「わたしの人間性が未熟で〜」
「これも大事な経験だし、それでも人を愛で〜」
などという、誤った聖人君子を目指して、(今考えれば、マジでちゃんちゃら可笑しい…)
断崖絶壁(自分にはそう見えるだけで他者にはひっくい壁でしかない)を、
無駄に登ってることに気づき、
今まで登ろうとしてた壁に穴あけて顔突っ込んで悶え死にたいと思ったり。
けっきょく、人を悪者にするより自分を悪者にする方が楽だし良い人のフリをしていたい(良い人とみられたい)という気持ちや、
嫌われたら生きていけないと信じてる自己肯定感の低さや、
あとは、困ってる人を助けて良い気分になりたい、とか、
フクザツなヒーロー願望とか、
もろもろ混ざって、人さまのために生きてたけど、(それはそれで、世のため人のためになってた。この世はほんとに良くできてる。やりたい=して欲しいがカンペキに成り立つ世界)
気づけば、心身ともにぼーろぼろ。
自分のために何かしたいと思った時には、
今まであったはずの体力も気力も意欲もお金もなくなってる。
そして大事な場所には戻れなくなり、
好きなことを思う存分できなくなり。
わたしが助けなければと思っていた人たちも、
よく見ればきちんとパートナーがいて、
お互いに支え合っていて。
この人たちはこの人たちで完結していて、
別にわたしが何か手を差し出さないといけないとか、
そんなことはなかった。
「人の人生で、自分が主役であるかのような振る舞い。」
助けたい、解決したい、なんとかしてあげたい…
それは、けっきょく、他者へのコントロールでしかない。
「わたしの出る幕も、居場所もなかったな。何かしてあげてるつもりで、実のところは、その人たちの人生に、わたしを登場させてくれてただけだった。
わたしの場所を、作ってくれてただけたった。」
腑に落ちたあとの、心からの安堵。
実のところ、
わたしが助けたいと思っていたのは、
両親だった。
わたしには、「助けが必要な人たち」に見えていた。
でも、冷静に見れば、わたしが自分の人生を投げ打つようにして助ける必要なんかなかった。(当たり前)
そう、気づいた時、親子間での大きな問題が、
あまり起こらなくなった。
全ては、「観念」「認識」でできているというのは、どうやら本当らしい。
そして、(わたしはそれらを前提と呼ぶが)
前提が変われば、現実が変わる、を、
身をもって実感した。
わたしは今、自分の人生を歩んでいる。
みんなに伝えたい。
【人生は、変わるのだ。】
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