また帰ってきたいです

僕が今まで書いてきた他の文章と同様、この文章もどうせいつかは恥ずかしくなって、書いたことを後悔することになるだろうことは疑いありません。まずこの書き出しが今ですら恥ずかしい。それでもただ僕の文章を楽しんで読んでくれる人と、まだ文章を書くことが好きな自分のために書こうと思います。
僕はまだnoteに帰ってきていません。ただただ気の迷いで、別れた彼女に酩酊の勢いで電話をかけてしまうように、noteに文章を書くのです。
普段の日々の中で思いついたことをメモしていましたので、それをここでまとめて晒しておきたいと思います。ふと浮かんだダジャレとか、かっこいい言い回しとか、真面目な読書感想文とか、そういったものです。

・12月5日に思いついたダジャレ

そろそろ指定校推薦の準備をしていこう。

・すべてがうまくいかなくて意気消沈していた先週の金曜日に書いた詩ともポエムともつかない「何か」

「咲かない魚」
顔が大谷翔平に似ていると言うだけで虐められもしました。
酒タバコの類は一切していません。
なかなか咲かない咲かない魚。
冷まさないとダメ!かます!
酒タバコの類は一切合切。
逆さまになりまして。

「寿司食う?」
冷まして!
アカプルコの居場所はたおやかなるタオです。
天野橋の向こう。
魂のタオです。
探して。魚が呼んでいる?
近づいていることは分かる。
音さえしている。

オートミールと島」
たまたま肩叩かれ戦ったからだ。
さかなさかなさかな。
悲しい金縛り。
まだ?
まだ!

「踊る踊り子」
末尾にゼロがつく。
死に際に思い出すアカプルコとお茶家。
里芋にして、サモア、鮫の子。
生ハラスの喪も、もうすぐ。
ハマス!事件のかほり。
生ハマスと踊る踊り子。
踊りを踊るのは得意です。
踊られもする。
そもそも四面楚歌だもの
ホモ!

・昨日(ケチャップのかかったハンバーグの詰められたお弁当を食べ終わったあとに)思いついた言い回し

殺人現場のミニチュアのようになったお弁当箱


・「訂正可能性の哲学」の人工知能民主主義について。※「訂正可能性の哲学」を自分の中で整理するために書いた自己満足的なもの

AIを利用した民主主義(人工知能民主主義)は、ビッグデータとそれを処理する人工知能によって、短絡的に解釈された「神」としての一般意志が創出され、またそれに導かれた政治や政策や経済が「私」に有無を言わせないものとして立ち現れるという意味で非常に「宗教」的である。人工知能が、プレイヤーを超越したルールそのものである神(一般意志)を作り出し、我々をそれに(いかなる形であれ)帰属させる構図をとる以上、極めてカルト的であるが、厄介なのはその教祖たる人工知能の存在を科学が保証しているという点である。人工知能民主主義は科学が保証する宗教と解釈できそうだが、おそらく現代に生きる我々が科学を疑うことは、キリスト教徒がキリストの教えを疑うことと同じかそれ以上に難しいのではないだろうか。
1しか出ないサイコロを「確率は同様に確からしい」と信じて振り続けるのは止めにして、「このサイコロはおかしいんじゃないか?」「別のサイコロを用意する必要があるんじゃないか?」と疑うことを可能にする構造が不可欠なのではないだろうか。
※1しか出ないサイコロ:誰もがその「正しさ」を信じて疑わない科学(数学)の保証するシステムが導いた歪んだ事象

・気づき
創刊のために書いた文章「生命体インターネットの老後」の最後で書いた
「絶え間ない生産と消費のサイクル。絶え間ない改変と批判のサイクル。この両輪による流動性は、常に不安定さによって維持され、改悪の可能性と背中合わせだ。しかし我々はそれも承知の上で批判を続けなければならない。なぜなら近い将来、インターネットが生命体として動き始め、我々はその一員であることを余儀なくされるかだ。                   
生命体インターネットの細胞である我々にとって、批判を繰り返すことこそが”責任ある老後の振る舞い方”であると信じている。」
の一節は、「訂正可能性の哲学」を将来読むことを予感していたかのような一節じゃないかと今になって驚く。

はい、これまで。またいつかnoteに帰ってきたいと思ってます。

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