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個性強迫症になる前に知ってほしい分人主義と言う考え方

このnoteはG's Academy Advent Calendar2019の24日目の投稿です。G's Academy Fukuoka DEV3期卒のAkiがお送りします。

G's Academyを受講した理由は様々でしょうが、キャリアチェンジを目的とした人など、「自分探し」の過程でプログラミングにたどり着いた方も多いのでは無いでしょうか? 

何かと「自分らしさ」や「個性」が求められがちなご時勢。自分探しを繰り返す内に「個性強迫症」に陥っていませんか?「個性強迫症」は、私が勝手にあてた造語ですが、つまりは「個性」の探求や「個性を活かした仕事探し」が過剰なプレッシャーになっていませんか?ということです。

かく言う私もその一人で、卒業制作のアイディア出しのフェーズで内省を繰り返す内に個性強迫症がピークに達し、危うく出家するところでした。そんな時に出会った「分人主義」という言葉が自分探しで路頭に迷っていた私には、とても「しっくり」きたので、今回ご紹介します。


分人主義とは

分人主義とは、小説家の平野啓一郎氏が提唱した造語です。

英語の "individual (in-dividual)" =(もうそれ以上)分けられないという意から転じて、社会の最小単位として「個人」が定義付けるのが一般的ですが、これに対し平野氏は、"dividual"(分けられるもの)=「分人」という更に細かい単位の存在に目を向けています。

物理的に存在する1体の人間(所謂、個人)は、社会・コミュニティ・家族など、他者との関係性においてそれぞれ「分人」を持ち、個人は「分人」で構成されているとする考え方です。


個人主義 と 分人主義

「個人主義」(ここでは、個人という単位に基づく思想の意。)と比較すると分人主義の特徴がわかりやすかもしれません。

例えば、家庭などリラックスしている時と、緊張が伴うことの多いビジネスシーンでは、全く違う態度や思考が働くということは、多くの人に思い当たる節があることと思います。

個人主義では、個のもつ人格は「1つ」であり、思考や行動には一貫性があるべきという考え方が根底にあります。上記のようなシチュエーションでは、異なる二つの人格の内いずれかを核となる人格、つまり「本当の自分」として選ぶことになります。仮に、「本当の自分」を家庭に据えた場合、必然的にビジネスシーンの人格は仮面をかぶった「偽の自分」と認識されます。極端にいえば、他の全ての人格を否定することで、ひとつの本物の自分が成り立つことになります。

一方の分人主義では複数の人格の共存が許容され、且つ、多様な分人の存在が個人のバランスを保つ上で大切であるという解釈がなされる点に大きな違いがあります。家庭の分人も、仕事場の分人も紛れもない「本当の自分」であると認めるものです。

私たちは、日常生活の中で、複数の分人を生きているからこそ、精神のバランスを保っている。社会での分人が不調を来しても、家族との分人が快調であるなら、ストレスは軽減される。(平野啓一郎 著『私とは何か「個人」から「分人』より)


一貫性のない選択への罪悪感

少々脱線しますが、G's Academyに入学する前、私は海外で商社に勤めていました。商社は、物を作るメーカーさんから、物を買いたいクライアントをつないで「物」を流すことが商売です。インターネットの無い時代から、人を世界中に送りこんで、新聞記者並みの情報量を足で稼いで、その情報を持って有利に商売を進める能力が大きな価値とされてきました。そこで、政治経済系のレポートを書くことが私の業務の一つでした。

商社はまず、売り物がないと始まらないので、メーカーさんに行って「我が社で商品を売れば上手くいきますよ、なんせ市況を ”こぉ〜んなに” よく知ってますから!」ってな具合でドヤ顔する所からはじまります。その、”こぉ〜んなに”の部分を営業さんにインプットすることが、私のミッションでした。自分の仕事は、営業さんが気持ちよくドヤ顔するための「エロ本」作りみたいなもんだなぁ、と勝手に解釈していました。

写真:当時作っていた資料。ブラジル大統領選挙戦での立候補権剥奪に関する最高裁裁判の動向について。エロ本の中身は至極真面目。

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急に前職の説明をしたのは、自称エロ本作家からプログラミングへの流れには、全くもって一貫性がないものだったという事を伝えたかったからです。そして一貫性のない選択に対して、当時の私はある種の罪悪感のようなものも感じていたんだと思います。

「思います」としているのは、「なぜプログラミング?」「なんで福岡?」という周囲からの質問に対して、さも一貫性のありそうなストーリーを組み上げ、言い訳を並べていた自分自身の行動を振り返ってみて気づいたことだからです。今思い返してみれば、個人主義的な固定概念から、一貫性のない人生の選択に対してちょっとした罪悪感を持ってしまったのだと分析しています。

分人主義で解釈すると、こうなります。個人に複数の分人が共存するので、ある分人と、別の分人による選択が独立したものであっても不自然ではありません。異なる分人の判断に無理やり一貫性を持たせようとする必要もありません。後付けにも見えますが、分人主義は、自身でも整理仕切れていなかった行動に、今までとは異なった解釈を与えてくれるものでした。


個人主義が自分探しをややこしくする

個人主義が根底にあると、自分探しはエンドレスになります。

ひとりの個人に対して、選ばれたひとつの本物の自分だけでは、「偽物の自分」がない分、どうしたって不完全な個人が出来上がってしまいます。そして、不完全な個人に対して自分自身が感じる違和感は、別の「本当の自分」を探す旅に駆り出させる動機となります。

終わりのない辛い自分探しの旅は、納得感のない個性を何度も取っ替え引っ替えすることで、「もしかすると、自分には個性がないんじゃないか?」と言う不安感が増してきて、そのうちに「個性強迫症」にまで悪化してしまうこともあるかもしれません。


自分探しが辛かったら、試してほしい「分人主義」

時には強迫観念を感じるほど追い求めていた「個性」とは、個人主義に基づいており、ひとりの個人に紐付くひとつの個性とは、核となる人格以外を否定することで成り立った、不完全さを伴うものだったのです。固定概念にとらわれていたことに気づいただけでも、「個性」を気楽に捉えることができる様になりました。

私は、分人主義の「複数の分人の共存」を、形の異なる複数のコップを持っている様なイメージで捉えています。それぞれが分人であり、その形状は「人格」や「個性」を表していると考えます。個性を活かした仕事とは、そのコップを満たしてくれる様な仕事だとします。

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ワイングラスを選び、それに合ったワインでいっぱいにしても、残念ながら、他のコップは満たされません。

私の場合で言えば、前職での情報を処理して文章に纏める仕事を通じて、ひとりの分人は満たされていましたが、別の分人は物足りなさを感じていたのかもしれません。G'sを卒業した今は、プログラミングを通して、ものづくりへや創造性の刺激を求めていた別の分人を満たしてくれています。分人主義と出会う前は、前職は自分の個性を活かせないものとして、大雑把にキャリアを切り捨てる見方しか出来ていなかった様に思います。そう言った意味でも、分人主義は新たな視点を与えてくれました。

「自分探し」、そして「自分らしい仕事探し」は永遠のテーマですよね。なんだか出口が見えないなぁ、と感じた時、「分人主義」という考え方を使ってみてはいかがでしょうか。また違った視点から見ることで新たな道筋を見出すきっかけとなるかもしれません。

このnoteでの「分人主義」は、あくまで私個人の解釈です。ご関心がある方はぜひ平野 啓一郎さんの本(私とは何か―「個人」から「分人」へ 平野 啓一郎 (著) 講談社現代新書)を読んでみてください。

長文を最後まで読んでくださりありがとうございました。Merry Christmas and Happy Holidays !!


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