絵本が育んだヘキの話

(これは別ブログで書いた記事をnoteで編集・再投稿したものです)

今日は絵本の話をしてみる。といいつつ、メインは自分の過去話。
もっというと、そこから生まれた自分の性癖みたいなものの話もする。

ふたりはきょうも

自分は絵本をしこたま読んだ子供だった。
幼稚園のお友達が追いかけっこやブロック積みをしているのはどうでもよく、居心地の良い隅っこで絵本を広げて読む、ませた幼児だった。読み聞かせで知らない絵本が先生の手元に出てくると、いの一番に最前列に飛んでいっていたらしい。
好きなものや興味のあるものには一直線のせっかちな奴だった。
今でもそう。

実家は家族で共用するデカい本棚がひとつある家で、そこから適当に引っ張り出して文字も分からないのに本を読むのが好きだった。たまに挿絵なんかがあると「あたりが出た!」と喜んでいた。

そんな私の気質にいち早く気付いたお母さんは、常に図書館から絵本をジャンル問わず貸出制限数いっぱいまで借りてきてくれて、絵本が常に山のようにあった。たまにその図書館に一緒に付いていっては、児童書コーナーに向かうまでの道中でとんでもない量の本棚に圧巻されて「世間にはこんなに本が存在するのか」と幼心ながらに衝撃を受けたりしていた。

お陰様で相当な冊数を読んだと思うのだけど、残念ながらどんな内容の絵本を読んだかはほとんど忘れている。子どもの記憶ってそんなもん。そういう経験をした、ということだけをボンヤリ覚えている。

ただ唯一覚えて、当時から今まで好んで手元にまで置いている絵本がある。
「ふたりはきょうも」という、アーノルド・ローベルが著作した絵本だ。

絵本にしては結構文字が多い。短編集のようになっていて、年長さん向けの本だと思う。確か小学校の低学年の国語の教科書にも載ってたから、それくらいの読解難度の本だと思う。


年長さんや小学校低学年といえば、情緒がようやく発達しだす頃なんじゃなかろうか。曖昧模糊とした人間関係や意思やアイデンティティの概念を無自覚に掴み始める頃。
そんな時に触れ、好きだと感じた本が影響を与えないわけがなかった。

”がまくん”と”かえるくん”のデコボコな友達が常に一緒に過ごし続けるシリーズのうちのひとつが「ふたりはきょうも」だった。その他にも「ふたりはともだち」「ふたりはいっしょ」「ふたりはいつも」など、色々ある。
タイトルからしてすごくない?

いたいけな子どもに性癖の種を撒くかのような、そんなタイトルセンス。
内容も題に偽りなし。気質は反対だけどウマの合う2人が一緒に過ごし続ける。それぞれ家は別だけど、寝てる時以外はたいてい一緒に居る。そんな彼らの特別だけど普通な日々を描き続ける絵本。

無事にそういう関係が大好きな大人になりました。
まずデコボココンビに弱くなった。身長差に弱い。気質が真逆だけど仲良し、ということにも弱い。片方が落ち込むと片方がフォローに回るというシーソーのようなバランスも好き。
このシリーズの基本の話の流れは、小さいすれ違いやトラブルは発生しても友達はずっと大切な友達のままであり、「そして日常は続いていく」みたいなオチに収まる。この流れが好きすぎて、同人誌を描く上で私の中では鉄板の構成になってしまった。一生バッドエンドを描ける気がしない。

ロマンチックはここにある。たぶん。

今思い返すと、がまくんの家に勝手に上がり込めるかえるくん、スゴくない?合鍵持ってるのか、鍵をかけない世界なのかは謎だけど、心の距離が近すぎて新鮮にビックリしちゃうよ。
かえるくんが4月の春の陽気で目が覚めて、大慌てで一番に会いに行って家の中まで乗り込んで「がまくん!冬眠から起きて!もう春だよ!」って寝坊してるがまくんを叩き起こしに来るのは愛だよそれは。

「あと1ヶ月冬眠したい」とか言ってグズる低血圧のがまくんを起こすため、かえるくんが外に引っ張り出して、

「この4月の透き通った日差しを見ろよ、一緒に草原をとびはねられるし、夜にはこの玄関の前に一緒に座って星も数えられるんだ」

ふたりはきょうも

とか言うからとんでもない絵本だ。
読んだ当時はワクワクすることを挙げて起こそうとしていると思って読んでいたけど、今となっちゃロマンチックな言葉にしか見えないもんな。

絵本は簡単な言葉で、ストレートな愛を伝えてくれる。
新刊のプロットに詰まっている今こそ、私は図書館の絵本コーナーに行くべきなのかもしれん。