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原爆投下の情報を知りながら空襲警報すら出さなかった大本営本部

第1回現地テストを広島で 米国学会から知らせ

 水田青年はそこで、「米国の学会から秘密裡にニュースが先生に送られ、当時原爆製作を競争していた日本より先に、米国が成功し、その第1回現地テストを広島で行う予定が決まったから、出来るだけ早く親を疎開させなさい」といわれたこと、それを受けて「早速帰広し、特高警察等の関係のため、誰にも話すことが出来ないまま、父を無理矢理、理由も云わずに、廿日市まで大八車で、家財を積んで疎開させた」と証言していた。


 森が水田と直接会って確かめるなかで、「そのとき湯川博士が同席していた」ことを知らされ、大きな衝撃を受けたという。

たとえば、織井青吾著『原子爆弾は語り続ける―ヒロシマ六〇年』(2005年、社会評論社)は、当時14歳の織井氏が原爆投下の直前、陸軍通信隊(当時広島文理大に駐留)の兵士から次のような話を聞いたことを明らかにしている。


 「米軍の情報によるとね、明日6日、広島に新型爆弾を投下するから、非戦闘員、つまり坊やとか女子供、年寄りの人たちは、今夜から郊外に避難せよと通告している……それを知らせてあげようと思ってね……」「兄さんも避難したいが、兵隊だからそれは出来ない。しかし、坊やなら出来る」

宮本氏は当時25歳で、広島逓信局の監督課無線係として勤務していた。8月1日、受信調整をおこなうとき、サイパンから流されるアメリカの日本向けラジオ放送(「ボイス・オブ・アメリカ」)が「8月5日に、特殊爆弾で広島を攻撃するから、非戦闘員は広島から逃げて行きなさい」と数回くり返したのを聞いた。


 宮本氏は、「敵国の放送は聞いてはならない」と厳命を受けていた。しかし、これまでときおり聞こえたこの放送局からのニュースや空爆の予告が、実際に起こった空爆と合致していたことから係長にこのことを報告する。だが、「敵性放送を聞くとはなにごとだ、デマをもらしてはいけんから、おまえは家に帰さん!」と叱り飛ばされた。


 5日には何事もなかったかのように見えたが、翌朝、警戒警報が解除されて係長が出勤し「やっぱりなにもなかったじゃないか」と話したときに、原爆の直撃を受けた。

爆心地に市民集め大虐殺 天皇、支配層の延命条件に

 これらのアメリカからの情報が、大本営、天皇とその周辺に伝わっていたことはいうまでもない。『広島原爆戦災誌 第一巻』(広島市役所編)によると、すでに8月3日には大本営から「8月4日から7日にかけて、アメリカ空軍の特殊攻撃がある。十分注意を怠らず。対戦処置をとるべし」という暗号電報が広島の各部隊に入っていたのである。だが、それは箝口令のもと、広島市民にはまったく知らされなかった。そればかりか、原爆搭載機の侵入を手助けする形で警戒警報を解除し、広島市民がもっとも街頭で活動する午前8時15分、アメリカが史上もっとも残虐な兵器を投下できるよう犬馬の労をとったのである。それは長崎でも同じであった。


 大本営は広島市内に、警戒を発した8月3日から連日、学校関係者が口をそろえて危険な作業に極力反対したにもかかわらず、広島市内に義勇隊約3万人、女子学生・中学生の学徒隊1万5000人を動員させた。こうして、「小銃を渡すこともない編制中の玉砕予定部隊の老兵」「竹槍の女子挺身隊員」「女子学生や中学1、2年生」ら、中学生以上の市民を爆心地周辺に集めて被害を拡大させることまでやってのけた。

第2総軍司令部は広島、長崎に向かうB29原爆投下機の動向については当日も、レーダーや無線ではっきりととらえ追跡していた。だが広島では高射砲でエノラゲイに照準を合わせていながら、「撃て」の命令は出されなかった。長崎でも、大村航空隊で迎撃の態勢をとっていたにもかかわらず、出撃命令が出されなかった。


 著者は、このような異常な状況が生まれた根拠、その背景について、海軍の極秘裏の敗戦工作、とくにアメリカとの「国体」の護持をめぐる取引がからんでいたことを強調している。


#天皇を守るため広島市民は生贄にされた
#広島原爆

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