SNSと身体・恋愛的情動

備忘録的雑記08

こういうのはいままでツイートだけで済ましていたが、メモみたいなものでも気にせず公開していくことにした(コロナで万人の致死性が高まったように思うので)。

きっかけはHouxoQueさんのツイート。

現状のネットやSNSでは、自分の「身体や関係性、情動にかかわる直感的な現れ」の圏域がすごく強い(雑誌メディア時代と比べて)。その運用は恋愛や性愛、およびそのエンタメ的・ポルノ的消費形態がかなり盛んになっていて、政治家・政権を取り巻いている言説も同種のものになっている。

 かつて雑誌の時代では、この文化のトライブはこういう言説、趣味で、テキストはどこでまとまってて、他方であっちのトライブはこう、と類型化処理しつつ言説把握や教養リンクを維持するのが相対的に容易だった(ただしうまく雑誌を使えた場合に限る)。しかしネットだとそのトライブとリテラシーの分布状況の明視も効かず、効率的にトライブ間を往復しづらくなった。SNSでは、同一トライブ内で同じか劣化した発話であってもプレイヤー数は実に多く、アテンション数は雑誌時代より数倍以上に膨れ上がっている。また身振りや欲望の生態的な細やかさが増しているため、このアテンションエコノミーから逃れにくくなっている。生態的適応を外れるには、フィールド観察や洞察、自ら類型処理を開発するなどというふうに課せられるハードルが上がってしまった。

 また、各コミュニティの生態系が(質はさておき)細やかになり成員も増えたのに並行して、ブログ生態系より発話者の人称性が激しくなっている。発話者以外の、「国民」をはじめとするアバターで吸引する運用も分厚く蓄積されている(ツイッター上のポピュラーフェミニズムの躍進もこの条件下で可能になったといえよう)。この人称性の台頭を受けて、恋愛に関連する全要素の再結合が起きていると考えられるだろう。こうして、一見恋愛と関係がない方面も似たような技術になってきている面がある。もちろん実際にリアルな関係は生じないので疑似的なのだが、だからこそ幻想的に強固に持続する。

 いまや幻想的関係を補給してくれる素材がつねにSNSに漂っている。そうなると、自分の「身体感覚」(ただし言説やテクノロジーを介して構築されている)を維持するためにSNSにアウトソーシングし続ける、という姿勢も生まれてしまう。これは、主観的には直感・身体的だが、そのプレイの土台が外部委託された状態だ。つまり、自分の身体の延長のように直感的な対象としてSNSトライブの挙動・動向がある。自分と切り離せない身体化がますます進んでいる。

 ここで変容があるとすれば、発話を文献とテキストにつなげ直し、コード変換する慣習が高まれば「生態系のコミュニケーションよりもテキスト」となることだろうか。こういうのは、端的に、テキストを交えて音声で(つまり身体的齟齬が出やすいやり方で)意見言い合えば、どうしてもちょっとした摩擦や切断が知的契機になる。現在、Discordとnoteが盛んになってきているのはそういう可能性もあるんだろうと考えている。

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