漫画における男性表象や生活描写1

備忘録的雑記03a

畠山宗明さんのツイート(2019/6/25。現在はアカウントは鍵付き)
「昨日話題に出た、男性の主人公で、独身で、親戚に「結婚したら・・・」とか言われながらもきちんと自律した生活が描き出されている作品(『るきさん』の男性版みたいなのか)ってやっぱりあんまり思いつかないな。男性(向けマンガ)の場合、性愛を断念すると、同時に生活も断念してしまうローリングストーン的美学に行きがちだし、その際にやはり一芸に秀でている場合が多い気がする。


要は求道者ってことなんだろうか。どうも五行先生とか稗田礼二郎とかしか思いつかない。そう考えると岸部露伴とかもそうなのか。思ったけど、男性の主人公(もしくは男性向けマンガ)でそういうのって、すごい極端な例から間接的に共感を生み出しているのかなあと思った。極端な例と言うことで言うと根本敬の高齢労働者とかもそうなのかな。」
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ここから考えた。

日常エッセイマンガの男性版アダプテーションの結果が、初期ゴーマニズム宣言のような「世相とニュースを枕にオピニオンを提示する路線」だったのを思い起こさせる。おそらく、生活や関係をめぐる感情や工夫に蓋をする技法が、男性青年文化にかなり根強くあるのだろう。

青年漫画誌には半グレ・ヤクザものという定番枠があるが、近年はこれに生活感を与える工夫がある(『ザ・ファブル』『極主夫道』)。これは、まず「極端なケース・職・状況」を出せば、そこで生じる読者との無関連化によって、受容が可能になるということなのではないか。

こう考えると、ポストアポカリプスものが生活日記っぽくなっているのも同じ過程なのかもしれない。現代社会で生活や関係を描く基準から見ると、「少女終末旅行」は、生活を描くのではなく生活を消滅させることで代替する、関係をめぐる感情と疲弊を描くのではなく、関係を成立させる環境を消滅させることで代替する、という処理としてとらえられる。

なろう系異世界転生にしても、実質的には「生活日記」が多い。これは作家が男女とわず、大きな傾向としてある。冒険の目的を据える作品の方がまれで、たいていは空気系漫画のようにただ生活をしている。

極端なものを自画像として経由することについては、90年代の青年誌漫画が際立ったモニュメントを残している。新井英樹「宮本から君へ」・望月峯太郎「バタアシ金魚」・山本直樹90年代作品などは、主人公をクレイジーにする/主人公が次第にクレイジーになるという系統の作品であり、90年代青年誌漫画は「ナチュラルに狂っている」をやたら好んで書いてたと思うんだけど、これは日常的感情をそのまま書くことに気後れするから蓋をして、狂気のフレーバーで乗り切ることや、極端な性質を付加してそれを蝶番にしてしか主題を扱えないといった点を感じさせるので、問題点で共通するものがある。

2010年代におけるポストアポカリプスものというのは、90年代漫画における狂気とかアブジェクトな他者表象(根本敬のスタイルからねこぢる、「宮本から君へ」主人公、アゴなしゲンぐらいまで含みそう)に取って代わる様式に思える。そこでは、二者関係の不安や自意識を変形して、狂気やアブジェクションに行くのではなく、環境を消去している。

畠山さんは極端な求道者のケースに岸辺露伴を挙げているが、私はジョジョ4部の作者自画像は岸辺露伴と吉良吉影のダブルキャストで展開されたと見ていて(近隣住民から乖離し、杉本鈴美という「地元の記憶」を挟んで分身的な構図)、荒木は90年代シリアルキラー表象を介して自画像が可能になったのではないか。なので、これは先に挙げた青年誌のモードの亜種で、荒木が少年誌でやったらこうなった、というふうに収まる。

こうまとめると、花澤健吾の作品キャリアは90年代的な屈託と自意識、それらの再編としての00年代ネットカルチャーと欲望の編制、そして10年代のポストアポカリプスなサバイバルコミュニティまで、というふうに鮮明な変容が反映されているな。

ポストアポカリプスな舞台というのは、社会が存在していない結果、「相対的尺度」がほとんど存在しなくなっている。貧困は相対的なものとして比較に晒される苦痛があるし、人間関係への感情も相対性こそが面倒なんだけど、それらが無くなり、各人の置かれている状況が唯一の指標となる。

私はバブル期における転勤系フィクション(現在における異世界転生ものの原型として読める)の漫画でベストと思ってるのは、山本直樹の『僕らはみんな生きている』なんだけど、開発チートどころか紛争でキャリアが破綻し、鬱になった日本人がシムシティして現実逃避するとか、各所で攻めている。山本の『僕らはみんな生きている』は、簡単にまとめるなら当時における島耕作的な「うまいことやって成功する」系願望充足の芽をことごとく潰すwという展開だが、願望充足を挫折させるだけなら今やってもそれほど効果上がらないだろうから、「すでに転勤系でこの成果がある」という里程標扱いかな…

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