『素敵なダイナマイトスキャンダル』の快楽と罪業

子は親ときわめて似た人生をたどるか、そうでなければ親とは全く異なる人生を送るか、そのどちらかであるということを向田邦子が書いていた。周囲の親子を見ると、何となくわかるような気もする説であるが、さしずめ子は、親の影響を避けることができないということなのだろう。親が、みずからが実現できなかった夢を子に託すというのはよくある話だし、親の背中を見て育つ、ということは反面教師とするということでもある。では、母親が隣家の息子と不倫の末、ダイナマイト爆破による心中で果てたという、この映画の主人公の人生はどういうことになるのか。

異常な経緯で母親を失い、父とともに流浪の労働者生活をつづけることになった末井昭(柄本佑)は、工場で働きながらデザインの学校に通い、隣人の牧子(前田敦子)と恋仲になる。やがてデザイン事務所で仕事をするようになるが先進的なアイデアはなかなか周囲に理解されず、同僚の近松(峯田和伸)と芸術談議に明け暮れる。その仕事も辞してキャバレーや風俗店の看板を描いて好評を博し、成人向け雑誌の編集などさまざまな事業を手がけるようになってゆく。物語にはわかりやすい筋書きも明快な展開もあるとは言いがたい。末井という青年が場当たり的に新たな仕事を次々にこなし、そのさきざきで発生する珍奇な騒動を目のあたりにすることで飽きるひまもなく映画の時間はすすんでゆく。主人公に野望も計画もなく、守るべき正義や思想も崩れてゆくから、欲望の暴走のままに転々を楽しむしかないのである。

デザイン事務所にいたときは、自身のデザインに現代社会の抱える苦悩や不安、矛盾を込めようとして、デザインにおける自己表現を否定する上司(杉山ひこひこ)に嘲笑される。同僚の近松はその直後、末井にラーメンをおごってくれ、机に向き合って座って二人で麺をすする。末井から金を受け取らないにもかかわらず、出前を運んできた店員にはツケにするように大真面目な顔で要求する姿は滑稽なのだが、突然、末井を否定した上司のほうを指して、あんなつまんないやつに何言われても気にしちゃだめだよ、と叫ぶ。この近松にも、当時の末井と同様に信条があり正義があり思想がある。それが崩落してゆくのはキャバレーや風俗店の看板の仕事をするようになってからだろう。キャバレーの店内に設置するために巨大な男根の像を製作して一笑に付されたり、なりふりかまわず淫語を発して客引きにいそしむ中年の店員(政岡泰志)を目のあたりにしたり、売り上げのために性的なサービスを半ば強要されたり、という経験を、その具体的な契機として見さだめることができるだろうか。象徴的なのは、成人雑誌の編集長になってから新人の女性社員の笛子(三浦透子)を外出に誘って喫茶店に彼女を待っているとき、背後の席の二人組が難解な用語を多用して思想を語りだした場面であろう。離れた席の二人だが、末井は呆れたような表情で白いおしぼりを投げつけ、一度は無視されるが、無視されたとわかるや再び黙っておしぼりを投げつける。高等な思想的な議論は末井にとって唾棄すべき対象と目されるようになってしまったのであり、そこには無視し聞き流すことさえできない深い憎悪がある。また、さらにのちになって成人雑誌の編集部に苦情の電話がかかってきたときの対応も注目される。編集長出せーって、と面倒くさそうに受話器を差し出す部下を引き取って、やはり物憂げに応対する末井は、社会的正義や常識的な倫理に抗して表現の自由や多様性を高唱するわけでもなく、売れるから出すんです、と開きなおる。言わば欲望のままに駆動する資本主義の論理に自身の立場を回収してしまうのである。外部的な圧力に屈することなく、自身の追求する表現を貫徹する、という強度はないと見える。

このような末井の態度が成立し、次々と活動の場を拡大することができたのは、今から見ればまぎれもなく時代の要請である。欲望のままに行動し、そしてそれがむしろ誇るべきことであるかのようにも考ええた高度経済成長が背景にあってこそ、思想も反省もない気ままな末井の性格と行動が実現しているように思われる。末井はどこまでも、絶対的な窮地に陥ることなく済んでしまうのだ。有害図書を取り締まるべき警視庁の諸橋(松重豊)の追及もおおらかだし、末井はのらりくらりと言い逃れ、指導を受けるやすぐに同業者たちと会合を開いて対応を検討する。笛子を愛人にして妻の牧子と暮らす自宅を空けがちになり、真夜中に笛子に電話で呼び出されて外出するときも背後から牧子に呼びとめられるものの、浮気は露顕することなく終わる。金策に失敗して多額の借金を抱え込み、編集部が警察に踏み込まれたあとはパチスロに身を入れ、ラストでは女装して着物をまとい、パチスロ情報の宣伝に登場する。

絶対的な窮地に陥ることがない、というのは、あるいは誤りかもしれない。現実の事態がどうであれ絶対的な窮地の感覚を持たず、転んでもただでは起きない、という変転を深刻なレベルで反復しているとも言える。喜々として宣伝に興じる末井の姿、そしてそのカットで終わる映画の構成、これは『ウルフ・オブ・ウォールストリート』(13)で一時の寵児から零落したジョーダン・ベルフォード(レオナルド・ディカプリオ)が一本のペンを提示して商売の秘訣を説きはじめる姿がラストだったことを想起させる。映画の冒頭で薬物を用いた性行為に興じていたベルフォードもまた、有無を言わさぬ資本主義の原理の波に、ただ無節操に乗っただけだったのだ。財力の使い道を、性欲の蕩尽に費やしてしまった男たちの悲劇、ととらえてもよいだろう。

末井の場合にはその人格形成の始原に母親の衝撃的な死があっただろう。活躍する末井の姿に回想的に挿入される母親の富子(尾野真千子)の情事や彷徨、そして山の景色に遠く聞こえるダイナマイトの爆破の轟音は、このことを明らかに告げている。心中を決行する直前の夜に末井の枕元に現れて、顔を撫でてくれた母、隣家の息子が家に踏みこむと誘うような表情で背後に倒れかかり、そのまま正常位で男を受け容れる体勢になる母、夫の暴行に耐える母、轟音とともに文字通り破滅して果てた母、そしてその唯一の台詞「さようなら」、末井にとっての母親像は幾重にも分裂し、しかしそのひとつひとつが鋭い目元を持つ尾野真千子の共通した顔貌を持っていることが巨大な矛盾として立ち上がる。そのせいか末井は、女性との関係を固定的なものとはとらえることができない。牧子とは結婚して同居しているが、それさえ結婚の経緯は明確には描かれない。一時は夢中になったものの、逢瀬が間遠になってしまった愛人の笛子は精神に異常をきたしてしまう。そして末井は、関係を持った女性をもれなく不幸にし、誰も人の母親にはしないのである。

時代のはらんだ熱量や欲動を鮮やかに描き出しながら、その背景に秘められた罪業もほのめかず手腕が見事だった。これ、ゲージツ、とうそぶいて女性の下着を剥ぎとっては撮影してゆく写真家の荒木(菊池成孔)の方法、そして笑いながらそれに対応してしまう女性たちの姿を、今日的にどう考えるべきかは困難な問題であろう。その罪と快楽に満ちた時代と、その時代に風を得た末井昭の個人史が濃密に絡み合う。教訓を導き出すよりも、提起された問題を受けとるしかない。

末井の父は妻に死なれ、工場労働をしては酒に溺れ、末井の恋人だった牧子にさえ言い寄るだらしなさを見せるのだが、そのみじめな老人を村上淳が演じ、はまっているのも配役としては衝撃的だった。それにしてもこの末井昭という人は、表現活動の思想的、理論的な精密化もなく、自由のための権力との主体的な対決もなく、分野を転々としながら才気のままに性や賭博の文化の発展に寄与し、あげく自身の生涯に取材した映画の主題歌で尾野真千子とデュエットを組んでしまう。それでは爛熟した時代と文化の勝ち逃げではないか、と言い募ってもみたくなる。必ずしも爽快ではない後味の一本だった。

2018年。冨永昌敬監督。

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