雑記(四)

 三島由紀夫は、自身の小説「橋づくし」について、「もっとも技巧的に上達し、何となく面白おかしい客観性を、冷淡で高雅な客観性を、文体の中にとり入れ得たものだと思っている」という。そのうえで、次のように続けている。はじめの「その」は、「橋づくし」の、の意だ。

「その扱う芸者の世界の、スノビズムと人情と一面の冷酷、『女方』に扱った役者の世界の、壮大と卑俗と自分本位、『月』に扱ったビート族の世界の、疎外と人工的昂揚とリリカルな孤独、……これらはむかしの狂言作者が「世界定め」の儀式に従って「世界」を設定したのとはちがって、たまたま面白がってその世界をのぞいているうちに、その独特の色調、言語動作、生活作法が、水槽の中の奇異な熱帯魚のように、文藻の藻のあいだに隠見するようになり、それらが自然におのおのの世界を誘発させたという具合であるから、そういう長い時間と、スポンテニーイティとが、この三編に、或る濃厚さと、リッチな味わいを与えてくれたのであろう。もちろん、それらは私の「遊び」から生れたものだ。自分を故意に一個の古風な小説家の見地に置いて、いろんな世界を遊弋しながら、ゆったりと観察し、磨きをかけた文体で短編を書くという、私の脳裡にある小説家のいわばダンディズムから生れたものだ。短編小説はこういうダンディスムの所産であるべきだという考えが、今も私からは抜けないのである」(「解説」『花ざかりの森・憂国』)

 三島が「橋づくし」などを楽しんで書いたということ、すくなくとも自分をそのような書き手として演出したがっていたことはよくわかる文章だが、同時に、それらの作品が、重大な主題を含むとは、三島自身が考えなかったらしいこと、あるいはすくなくとも、そのように自分を見せようとしていることも、よくわかる文章であろう。三島はこの部分につづけて、行を改めて、「しかし、そういう私が、必ずしも、こんな余裕派の態度であらゆる短編を書いてきたわけではない」と一文書いて、さらに行を改めて、「詩を書く少年」、「海と夕焼」、「憂国」の三編の話題に移ってしまっている。

「長い時間」と「スポンテニーイティ」が、作品に「濃厚さ」、「リッチな味わい」を与えたという。そしてそれらは「遊び」から出てきたものだという。「スポンテニーティ」とはspontaneityのこと。訳せば「自発性」ということになるが、そうやってみずからを執筆へと動かした自発性は、それぞれの世界を見つめる「長い時間」のなかでしか生じなかったというのであろう。そのあとでさらに、「憂国」について、「ここに描かれた愛と死の光景、エロスと大義との完全な融合と相乗作用は、私がこの人生に期待する唯一の至福であると云ってよい」とか、「かつて私は、「もし、忙しい人が、三島の小説の中から一編だけ、三島のよいところ悪いところすべてを凝縮したエキスのような小説を読みたいと求めたら、『憂国』の一編を読んでもらえばよい」と書いたことがあるが、この気持には今も変りはない」と書いていることからも、その対照はあきらかであろう。

 だが、三島が「余裕派の態度」で短編に仕立てた「橋づくし」における「スノビズムと人情と一面の冷酷」が、後代の一読者、たとえば私にとっては「エロスと大義との完全な融合と相乗作用」よりもはるかに重大な問題である。そういうことはいくらでもあるだろう。「スノビズム」とは、紳士淑女を気取った俗気のこと。誰もがすこしでもよく見られようと心を砕いているこの世を渡るにあたって、こんなに大切な問題もめったにない、と言えば言える。それが三島の、すくなくともみずから語るところにおいては、中心的な課題ではなかったということをさびしみながら、私はこれからも「橋づくし」を愛読するのであろうと思う。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。