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雑記(九)

 栗原安秀は、二・二六事件を最も熱烈かつ強硬に主導した人物だ。

 事件の前年に栗原は、同志の磯部浅一に決起の必要性を訴えている。磯部の手記から、そのときの栗原の言葉を引く。「磯部さん、あんたには判つて貰へると思ふから云ふのですが、私は他の同志から栗原があわてるとか、統制を乱すとか云つて、如何にも栗原だけが悪い様に云はれてゐる事を知つてゐる。然し私はなぜ他の同志がもつともつと急進的になり、私の様に居ても立つても居れない程の気分に迄、進んで呉れないかと云ふ事が残念です。(中略)栗原の急進、ヤルヤルは口癖だなどと、私の心の一分も一厘も知らぬ奴が勝手な評をする事は、私は剣にかけて許しません。私は必ずやるから磯部さん、その積りで盡力して下さい」。

 相当な情熱を持っているはずの磯部だが、これにはやや気圧されたと見えて、「大きな事を云つて居ても、いざとなると人を斬るのはむつかしいよ、お互に修養しよう、他人がどうのかうのと云ふのは止めよう、君と二人だけでやるつもりで準備しよう、村中、大蔵、香田等にも私の考へや君の考へを話し、又むかふの心中もよくきいてみよう」と返しておさめている。「村中、大蔵、香田」は、村中孝次、大蔵栄一、香田清貞のことだ。

 事件当日の栗原は首相官邸の襲撃を指揮し、時の首相・岡田啓介の殺害に成功した、と思っていたが、実際に殺したのは岡田の妹婿の松尾伝蔵だった。岡田は押入れに隠れて九死に一生を得た。ただし、それはあとからわかったことである。

 その栗原が、事件開始から三日目の二月二十八日、陸相官邸で今後の方針について意見を出した。磯部の手記によると、その場にいたのは山口一太郎、村中、香田、磯部、栗原の五名。栗原は言う。「統帥系統を通じてもう一度御上に御伺ひ申し上げようではないか。奉勅命令が出るとか出ないとか云ふが、一向にわけがわからん、御伺ひ申し上げた上で我々の進退を決しよう。若し死を賜ると云ふことにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決する時には勅使の御差遣位ひをあおぐ様にでもなれば幸せではないか」。

 同じ栗原発言を、村中孝次の手記「続丹心録」はこう書いている。「今一度統帥系統を経て、陛下の御命令を仰ぎ、一同、大元帥陛下の御命令に服従致しませう。若し死を賜るならば、侍従武官の御差遣を願ひ、将校は立派に屠腹して下士官兵の御宥しを御願ひ致しませう」。

 栗原の発言の内容について、磯部と村中の記述はほぼ一致している。事後に書かれた手記とはいえ、混乱した情勢のなかでの記憶が、よくここまで一致するものだと思う。栗原発言の要点は二つ、もう一度、統帥系統から天皇の判断をうかがおうということ、そして、死を命じられた場合には下士官は残して将校は自決しよう、ということである。

 ただし、このとき誰が同席していたのかについて、磯部と村中の記述は微妙に異なっている。磯部の手記では、このとき山下奉文と鈴木貞一は退室していて、前出の五名で話していたことになっている。それに対して村中は、「香田、磯部、栗原、野中及余」の五名が「鈴木大佐、山口大尉立会ひの下に山下少将に会見す」と書いていて、野中四郎もいたことになっているうえ、山下、鈴木の退室が明言されていない。さらに、栗原発言の直前に山下が「奉勅命令の下令は今や避け得られざる情勢に立至れり、若し奉勅命令一下せば諸子は如何にするや」と問い、村中らは「事重大なるを以て協議の猶予を乞」うたが、「十数分にして山下少将再び来りて返答を求む」という。

 村中はこの直後に、「一同黙然たりしも、栗原中尉意見を述べて曰く」として栗原の発言を書いているから、返答を求めに来た山下もこの場にいるように見える。磯部の記述との整合をはかるには、その前の「十数分」のところに栗原の発言はあったと考えればよいのだろう。山下は、一度は退室したものの、すぐ出入りできるところにはいたのだと思われる。

 しかし、二つの手記を総合すると、山下に対する信用の低さが見えてくる。村中によると、山下は「奉勅命令の下令は今や避け得られざる情勢に立至れり」と発言し、磯部によると、その直後に栗原が「奉勅命令が出るとか出ないとか云ふが、一向にわけがわからん」と言ったことになる。まだすぐそこにいる人物の、ついさっきの発言に対する不審が明言されたらしいのである。

 その不信感が、かえって一同の一体感を高めもしたのだろうか。この栗原発言はこの後、劇的な反応を呼ぶことになる。

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