雑記(一七)

 国会審議中に居眠りする議員の姿を目にすることは多い。しかし、国会議事堂の建物のなかで、初めて睡眠をとったのは、誰だったのだろうか。

 今の国会議事堂の建物が完成したのは、一九三六年の十一月のことである。参議院の公式ホームページには、「当時は日本一の高さを誇り、永田町の高台に美しいみかげ石で装われた議事堂が「白亜の殿堂」と賞賛されました」とある。もちろん今では、日本一どころではないが、当時は、かなり遠くからでも、その姿を認めることができた。

 完成した一九三六年、すなわち昭和十一年は、二・二六事件の年でもある。この年の十一月に完成する国会議事堂は、当時は新議事堂と呼ばれ、事件のあった二月の段階ではまだ工事中だったのだが、内部に人が立ち入ることができる程度にはできあがっていたらしい。この事件に動員された陸軍の部隊の、宿営地として検討されていたからである。

 須崎慎一『二・二六事件 青年将校の意識と心理』(吉川弘文館)によると、まだ事件の終息しない二月二十七日、山口一太郎は、部隊の宿営地を用意するにあたって、この新議事堂を第一候補とした。しかし、内部を偵察させると、新議事堂はまだ工事の途中で、電灯、暖房、水道がなかったため、候補から外された。第二案として山口は、大臣官邸、学校、個人の屋敷、料理屋を宿営地とすることを小藤恵に提案する。小藤はこれに対して、学校は試験中だからやめるように、個人の屋敷もなるべく避けよ、旅館やホテルはよいが、料理屋は避けたい、華族会館ならばいいだろう、大臣官邸ももちろん結構、しかし陸相官邸は早く空けたほうがよい、と山口に命じたという。

 結果として、小藤の命令に基づいて各部隊は宿営することとなり、安藤輝三の部隊は料亭の幸楽に、丹生誠忠の部隊は山王ホテルに、というふうに宿営地が決まり、移動が行われた。山王ホテルは、午後六時頃に建物の明け渡しを命じられ、宿泊客を立ち退かせ終えたのは午後十一時半頃であった。須崎によると、ホテルの支配人であった小山重右衛門が、事件後にそう証言している。「ホテルの従業員にも、出入証をもたせ、出入りを厳重にすると共に、ホテル直営のスケート場も営業を差し止められたという。いわんや寒い夜、ホテルを突然追い出された宿泊客は、どんな思いだったのだろうか」。

 ところで、事件に参加した部隊に宿営場所を命令したのは小藤恵であり、その場所を実地に検討したのは山口一太郎である。小藤は二十六日の午後には「麹町地区警備隊」の指揮を執ることとなり、山口はその副官となっていた。そして、要人暗殺などを実行した部隊は、形式上は、このいわゆる小藤部隊に編入されることになるのだが、山口も小藤も、もともと事件の実行部隊に参加していたわけではない。山口は事件後に「叛乱者を利す」という罪名で無期禁錮の判決を受けてはいるが、小藤も山口も、立場はあくまでも、事件を収拾する側である。その小藤の名前で発せられた命令に、事件を主導した青年将校らが従うというのは、奇妙ではないか。

 そしてその奇妙さは、二・二六事件の全体の奇妙さ、理解しがたさにもつながっている。事件の実行部隊の内部も一枚岩ではなく、鎮圧、収拾する側の思惑も多様なのである。須崎は、青年将校らの態度や判断に一貫性がないことを指摘する、事件後の聴取書における小藤の証言を参照している。そして、「「奉勅命令」に対し、青年将校側は、都合が悪い命令だと、天皇の真意でない「天皇機関説」だと批判し、休みたい際の宿営命令には従うという二面的態度をとっており、小藤の指摘も、単なる責任逃れとして済ますことはできない」という。たしかにこの宿営命令に対する反応は、決起した将校らの判断のしたたかさを示すとともに、決して純真な赤誠の横溢でもなかったことをうかがわせる点で、注目に値するだろう。

 国会議事堂で初めて眠ったのが誰かは、まだわからない。だが、誰しも疲れれば、休みたいときは休みたいのだということは、わかった。

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