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雑記(七)

 二・二六事件の首謀者のなかで、もっとも詳細な手記を残したのは磯部浅一であろう。

 河野司による『二・二六事件ー獄中手記・遺書』は、全体で五五〇頁を超える大著だが、野中四郎から相沢三郎まで、二十二名の手記が並ぶうち、磯部の手記は一六〇頁ほどを占め、量的にも群を抜いている。その他の二十一名はほとんどが一〇頁程度で、次いで量の多い村中孝次の手記も、五〇頁に満たない。

 磯部と村中の手記の分量が、安藤輝三や栗原安秀のような、事件の他の中心人物よりもはるかに多いのは、処刑の日程とも関係している。同書末尾の「特別資料」の一部として収録されている「叛乱将校の銃殺」によると、一九三六年七月五日の軍法会議の一週間後、七月十二日の午前七時、午前七時五十四分、午前八時三十分の三回にわけて、香田清貞ら十五名は代々木陸軍衛戍刑務所処刑場で銃殺された。「その日はどんよりした曇り日で、風はなかつた。(中略)刑の執行は終始きわめて静粛に行われた。場外の代々木練兵場から、演習部隊の銃声がひつきりなしに聞えていた」。

 磯部と村中も五日に死刑を言い渡されているが、十二日には処刑されなかった。同書に示された村中の略歴には、「第一次処刑の十五人とともに死刑の判決をうけたが、北一輝、西田税の審理に関連し、磯部浅一と共に執行は延期され、同十二年八月十九日、北、西田、磯部と代々木刑場にて執行さる」とある。北、西田らの判決が言い渡されたのが一九三七年八月十四日、処刑はそれから五日後である。磯部も村中も、二・二六事件から、一年半ほどを生きたのである。

 磯部の手記は、事件の前年に起きた相沢事件の様子から、二月二十九日に捕縛されるまでの経緯を書いた「行動記」からはじまる。通称は「行動記」だが、同書にはその標題の下に小さな字で「編注、仮題・原文にはタイトルがない」とある。また、この記事の末尾には「揮毫用唐紙に、横書きに毛筆でしたためられたもので、二十五枚にわたる長文である」と注されている。はじめに「昭和十一年八月十二日菱生 誌」とあり、最後には「昭和十一年九月十二日」の日付と、「同志刑せられて満二ヶ月」の記述があるから、磯部はこれを一ヵ月で書いたのであろう。「菱生」とは、磯部の号「菱海」のことだ。

 この「行動記」を読むかぎり、相沢事件から二十六日の行動開始までの、磯部の心情は明るい。周囲の状況に不満を持ったり、怒りを抱いたりすることはあるが、基本的に、今後の変化に希望は持てると考えているようである。相沢事件直後の陸軍省の様子を見て「今直ちに省内に二、三人の同志将校が突入したら陸軍省は完全に占領出来るがなあ、俺が一人で侵入しても相当のドロボウは出来るなあ」と想像したり、栗原安秀が「私はなぜ他の同志がもつともつと急進的になり、私の様に居ても立つても居れない程の気分に迄、進んで呉れないかと云ふ事が残念です」などと訴えるのに対して、「僕は僕の天命に向つて最善をつくす、唯誓つておく、磯部は弱い男ですが、君がやる時には何人が反対しても私だけは君と共にやる」と答えたりしている。そして、「栗原の様なヤルヤル専門の同志がもう三、四人いたら出来るがなあ、暴虎馮河の勇者がほしい、熟慮退却の人間が多すぎる、青年将校は政治家でも愛国団体の講演掛りでもない筈だ」と考える。

 こうした磯部の明るさは、三島由紀夫の作品における、二・二六事件の際の青年将校らのイメージの暗さに比べると、意外なほどである。そしてその明るさは、おそらく、事件発生から三日目の二月二十八日まで、ほとんど変わっていない。この日、磯部は、陸相官邸で山口一太郎、村中、香田、栗原と会談している。そこで栗原の口から「自決」という言葉が出たあたりから、磯部の心中を、本格的に不安が覆いはじめたらしい。

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