雑記(二一)
ある冬の朝、千人以上の兵士たちが、夜明け前の都を駆けめぐった。宰相ら数名の要人は寝所を襲われ、殺害された。君主はすみやかな鎮圧を命じたものの、軍を指揮する者たちのさまざまな思惑が交錯し、事態はなかなか解決を見ない。そのとき、君主の弟は、都を遠く離れた北の地にいて、変事の報を聞くや、急いで都に向かった。そして、彼が都へ向かっているという情報を耳にした一人の学者は、それを迎えるため、あわただしく都を発つ。
こう書いてみると、古代か中世の出来事のようだが、一九三六年の二・二六事件のことである。昭和天皇の弟にあたる秩父宮は、当時は弘前の第八師団第三十一連隊大隊長を務めていたが、事件発生の翌日午後には、列車で東京に着いている。歴史学者の平泉澄は、同日の朝に上野駅を発って、群馬の水上駅で秩父宮の列車に合流した。
平泉は激烈な皇国史観で鳴らした、当時の東京帝大の教授である。以前、秩父宮に進講する機会があったので、二人は互いのことをよく知っていたはずだ。二人は東京に到着するまで、列車の中で時間をともにした。何を話したのだろう。
この秩父宮は、二・二六事件の青年将校のうちでも最重要人物のひとりである、陸軍大尉の安藤輝三とも親しく交際していた。安藤が中隊長を務めていた第一師団歩兵第三連隊に、秩父宮も務めていたことがあったのである。安藤は侍従長の鈴木貫太郎の襲撃を指揮し、また料亭「幸楽」や山王ホテルに立てこもり、最後まで抵抗した。自決を試みて果たせず、拘留され、事件後は七月十二日に処刑されている。
安藤の処刑から約一年後に処刑されることになる磯部浅一は、「相沢中佐、対馬は 天皇陛下万歳と云ひて銃殺された」、「安藤はチチブの宮殿の万歳を祈つて死んだ」と書いている(「獄中日記」)。「相沢中佐」とは、二・二六事件の前年八月に陸軍軍務局長の永田鉄山を陸軍省で斬殺した相沢三郎のこと。相沢は安藤らが処刑される九日前、七月三日に処刑されている。「対馬」は対馬勝雄のことで、首相官邸襲撃に参加し、安藤と同じ七月十二日に処刑された。
相沢、対馬は「天皇陛下万歳」を言って死んだのに対して、安藤は秩父宮の名をあげて死んだというのである。河野司編『二・二六事件ー獄中手記・遺書』(河出書房新社)では、「殿」に「(ママ)」とルビがあるが、ここは「秩父宮」に尊称の「殿」がついたと見てよいのではないか。安藤の秩父宮に寄せる思いの深さがうかがわれる記述であろう。
おそらく、磯部は安藤の声を直接に聞いたわけではない。磯部は、当日は「午前八時頃からパン\/\/と急速な銃声をきく、その度に胸を打たれる様な苦痛をおぼえた」、「余りに気が立つてヂットして居れぬので、詩を吟じてみようと思つてやつてみたが、声がうまく出ないのでやめて部屋をグル\/まわつて何かしらブツ\/云つてみた、御経をとなへる程の心のヨユウも起らぬのであつた」、「午前中に大体終了した様だ」とも書いているから、「安藤はチチブの宮殿の万歳を祈つて死んだ」というのも、みずからの目や耳で確かめたとは思えない。
それは、看守たちから伝え聞いたのかもしれない。同じ日、「午后から夜にかけて、看守諸君がしきりにやつて来て話しもしないで声を立てて泣いた、アンマリ軍部のやり方がヒドイと云つて泣いた、皆さんはえらい、たしかに青年将校は日本中の誰よりもえらいと云つて泣いた、必ず世の中がかわります、キット仇は誰かが討ちますと云つて泣いた、コノマヽですむものですか、この次は軍部の上の人が総ナメにやられますと云つて泣いた、中には私の手をにぎつて、磯部さん、私たちも日本国民です。貴方達の志を無にはしませんと云つて、誓言をする者さへあつた」という。「泣いた」をくり返して文章を展開させる、このときの磯部の興奮が伝わってくるようだが、ここで、安藤の死の様子を伝え聞いたとして不思議ではない。
また秩父宮は、陸軍士官学校で西田税と同期であった。西田は北一輝『日本改造法案大綱』を中心とする思想の普及に尽力し、二・二六事件の青年将校らの一部に大きな影響力を持った。
安藤や西田の具体的な行動を、秩父宮が即時的に把握していたとは思われないが、そういう位置にある人物、しかも天皇の弟にあたる人物が急に東京へやって来るというのは、さまざまな憶測を誘ってやまない。