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雑記(一二)

 忠臣蔵が好きだ、と言えばいかにも時代錯誤の発言と聞こえるが、吉良上野介は切りつけられ、切りつけた浅野内匠頭は切腹し、赤穂潘はとりつぶされ、大石内蔵助は遊興に耽ると見せかけて策を練り、四十七士は雪の晩に吉良邸への討ち入りを果たす、という、誰もが知る筋書きを、その通りにたどる楽しみを与えてくれるのが、この物語の好ましさである。

 私は、一九九九年のNHK大河ドラマ「元禄繚乱」の印象を抜きにして、忠臣蔵を思うことができない。そのときは吉良上野介が石坂浩二、浅野内匠頭は東山紀之、その妻・阿久利は宮沢りえ、大石内蔵助は亡き中村勘三郎、当時は勘九郎、妻のりくは大竹しのぶだった。時の将軍、徳川綱吉はこれも亡き萩原健一、柳沢吉保は村上弘明。こう書き出すだけで心が躍る。ぜひまた観たいと思う。

 冨士田元彦によると、昭和三十年代には、「三十一年に東映が、戦後初の本格的「忠臣蔵」映画として、大佛次郎原作『赤穂浪士』を市川右太衛門の大石で製作して以来、翌年には松竹が『大忠臣蔵』を、三十三年大映、三十四年と三十六年に東映、三十七年に東宝」と、製作が相次いだのだが、それは「この期間が、まさしく戦後日本映画の黄金時代であったことを、象徴する現象であった」という(『日本映画史の展開ー小津作品を中心に』)。だが「やがてテレビの普及に押されて映画産業が力を喪っていくと、時代劇そのものがスクリーンから姿を消していく」。その後、昭和五十三年の萬屋錦之介主演『赤穂城断絶』の登場までには「十六年の空白期」があり、「このように、「忠臣蔵」映画の消長は、時の映画産業の体力とみごとに見あっている」。そして「その意味で、今日は文字通りの受難時代だと言えるだろう」という。

 同書の初出一覧によると、この冨士田の文章「「忠臣蔵」と映画」の初出は一九八八年だが、その「受難時代」は、それから三十年以上を経た今も続いているように思われる。主君に対する行動とは言え、吉良邸に討ち入って首級をあげるのは殺人であるし、そもそも、先に手を出したのは浅野長矩のほうではないか、と考えるほうが、現今の常識にとっては自然であるようだ。

 矢田挿雲は、一九三五年十月から報知新聞に小説「忠臣蔵」を連載した。その内容は『定本忠臣蔵』で読むことができる。第一巻「素行と赤穂の巻」は昭和十七年、すなわち一九四二年の三月発行、長隆舎書店刊。その「序に代へて」で矢田は、この時代に忠臣蔵を書くことの意義を、熱烈に説いている。

「随分永い間、大石一黨の所行を、食詰浪人の賣名策なりとする新解釋が横行したことがある。説く者のしたり顏、聽く者の合點顏、共に何としても筆者の解しかねるところであつた」とはじまって、「國家についても、親兄弟についても一先づ値段をつけてからでなければ堪能せぬやうな怪奇な思想が、靑少年の心を蝕み始め、我大石良雄もその現金極まる史觀の犠牲と成るに到り、筆者の心は平らかなるを得なかつた」という。最後には、「此の一篇が多少とも、時人の義士觀を補正するに役立つだらうかと思へば、筆者殘年の御奉公、是上越す光榮は無く、從つて又、師恩の一端に酬い得た心地がするのである」とある。「師恩」の「師」とは、その前に出てくる、福岡玄洋社の機関新聞の主筆であった福本日南であろう。

 これを書いた日付は、「昭和十六年十二月八日、日米英開戰の勅下り、やがて捷報連りに到る」と示されてあり、さらにその後、「皇軍向ふところ敵無し」の題のもとに「堅氷も盤石も皆砕けたり」、「日本人たるの矜」の題のもとに「初詣只難有き御民我れ」など五句の俳句が置かれている。この調子では、現代の読者を得るのは難しいだろう。

 戦争は昭和二十年に終わる。矢田の「忠臣蔵」は、敗戦によって「忠臣蔵」そのものが求心力を奪われてゆく、その直前の光芒であったように思える。その連載開始から半年に満たない時点に、二・二六事件はあった。

お気持ちをいただければ幸いです。いろいろ観て読んで書く糧にいたします。