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近江瞬さん 歌集「飛び散れ、水たち」

一句じゃなくて、一首だよ!

という合言葉で締められるラジオ石巻の「短歌部カプカプのたんたか短歌」(毎月第1・第3火曜日の19時より放送中)でメインパーソナリティもつとめておられる、近江瞬さんの第一歌集「飛び散れ、水たち」を拝読しました。

ラジオ番組では毎回、歌集の中からや投稿された歌などからさまざまな短歌が紹介されており、おもに近江さんがその歌の解説を述べてゆくのですが、その解説がとてもわかりやすく、なんというか、丸めた紙を破らないようにしわを伸ばしながらきれいに開いてゆく、そんな丁寧さがあり、勉強になります。
近江さんの作られる短歌もまた、見落としがちな感情や事象を丁寧に展開しておられるように感じられ、ハッとなったりときめいたり、はたまたえぐられたりと、読みながらこころが大忙しでした。

十年後に見て騙されたりしないよう小さめのピースサインにしとく

連作「英語の海に」より。カメラを向けられるとなんでピースをしてしまうんでしょうね……。人間は忘れる生き物でかつ、思い出はいつだってうつくしくなってしまう。未来の自分が騙されないように、主体はピースサインを小さく作る。言外に、楽しいことばかりではない、かと言って楽しくないことばかりでもない主体の現在を浮かび上がらせていることに成功していて、こんな歌を作りたいなと思いました。情緒が豊かでありながらも自らを客観視できる主体のパーソナリティが魅力的です。

タイムカプセルに手紙を入れながら早く忘れることを願った

連作「半分の月」に収められているこの歌も、上記のピースサインの歌と同じような理由でとても好きです。

こころならはじまりの細胞にある手のひらできみの心音を聞く

連作「微かに揺れる」の最後を飾る歌。
人間の細胞は数ヶ月単位で入れ替わってゆくのですが、臓器の中で唯一、心臓の細胞は生まれた時から一度の細胞分裂も起こさず、生まれた時の細胞のままである———そんなトリビアを想起させる歌です。知識そのものは知っている人は少なくないかもしれませんが、それをこんなにときめくような相聞歌に落とし込めるのが近江さんの視点のすごさだと思います。

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「飛び散れ、水たち」は大きく三章構成になっていて、三章目には東日本大震災にまつわる連作がみっつ、収められています。じつは三章目の歌に関してもいくつか感想を書いていたのですが、読み返してみたらあんまりにわたしの自分語りがひどく、いまぜんぶ消してしまいました。また落ち着いて感想が言えるようになったら、あらためてnoteに書きたいと思います。今はひとつだけ引用させてください。

塩害で咲かない土地に無差別な支援が飢えて枯らした花々

連作「句読点」の冒頭の一首。この第三章自体の最初の歌でもあります。
この歌を目にした時に、心が抉られるように痛くなりました。わたし自身は北海道出身で、震災当時そして現在は千葉に住んでいるのですが、以前は数ヶ月から数年という短いスパンで東北の各地を転々としている生活を送っていました。青森以外の五県に住んだことがあり、震災で甚大な被害があった太平洋岸の岩手県釜石市、久慈市、宮城県仙台市、福島県いわき市での暮らしも大事な思い出となっています。
その思い出の土地たちにわたしは一体何ができていたのだろうか。いまでも考えます。奇しくも現在、新型の感染症によっていろんな立場のかたへの支援のあり方だとか、自分の身の律し方などが問われている状況であるように思います。なにが正解だったか、なにが正解なのかわからない今ですが、だからこそ、考え続けていかなければならないと感じました。

誤解していただきたくないのですが、この歌集に収められている震災詠は、けっしてなにかを糾弾するような内容にはなっていません。主体の日々の暮らしや、こころの柔らかいところが、ともすればすこし内省的すぎでは……と思われるような筆致で淡々とうたわれています。淡々としているからこそ迫ってくるものがある、そう感じる内容でした。

なんだかんだで長くなっちゃった、すみません!

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