「バロン住友の美的生活」展第2部

茶臼山-現在、大阪市立美術館のある辺り-は、昔は住友家のお屋敷が建っていた。そこには大きな屏風が飾られ、絵が掛けられ、お客様がいらっしゃったら特注の食器でパーティー。そしてご主人様はお茶を点て、絵も書も篆刻も。

この夢のような生活は、しかし、わずか数年ほどで終わる。贅沢をし過ぎてお金が続かなくなったのでも、ご主人様に何かあったのでもない。ご主人様が、お屋敷のある土地を、美術館にすることを条件に大阪市に譲ってしまうのだ。

お金と労力をかけて建てたお屋敷をわずか数年で取り壊すなど、とても正気とは思えないのだが、住友春翠が狂気の人として語られることがないのは、日頃の行いに加え、美術館の土地を提供するという名目があったからだろう。大阪市立美術館の開館は昭和11年まで待たなければならないが、春翠が土地の提供を申し出たのは大正10年のこと。まだ東京都美術館も京都市美術館もなかった。そして、理由が何であれ、自分の土地を公共のために提供するということは、どんなにお金があったところで、そう簡単に誰にでもできることではない。

ただし春翠本人は、茶臼山にお屋敷を建てたのは失敗だったと認めており、息子の寛一も著書『Tへの手紙』で「何しろ莫大な費用と数年の時日とを費やして、苦心経営、漸く出来上がつたものを、僅か数年にして壊してしまふのだから、慥に馬鹿気てゐる訳である」と容赦なく書いている。


さて、今回の展覧会では、その茶臼山のお屋敷に飾られていた屏風に絵に陶器、使われていた食器、お茶のお道具などが展示されている。モノにはそれぞれ、そこにあるべき理由がある。春翠自身は会うことのなかった夫人の父が購入したお茶碗。それに相応しいものをと春翠が購入したお茶入。鉄製に見えて実は銅製のお釜。その他諸々・・・。展覧会は春翠の晩年の作品で幕をとじる。


春翠の後を継いで家長となった泉幸吉は、戦後に次の歌を詠んだ。


大切に家に伝へし書画の類蔵より出でて何辺に行くや

吾さへやつひに見ずして売られたる物にはなべて残念もなく


戦後の住友家を維持するために売られたものの数々。それはもう、私が目にする機会はないのだろう。そして目にする機会を与えられたものとのご縁を思う。


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