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なぜ note を書けないのか分析してみた

2023 年の 12 月。アウトプットの練習にと、毎月 note を書こうと決意し、10 ヶ月連続の投稿までこぎつけました。この記事を公開すれば 11 ヶ月連続で、1 年が目の前に迫っています。

10 ヶ月も連続で書いていれば、さすがに慣れてくるだろうと思っていましたが、いかんせん書けない。月末になると何をネタに書こうかと頭を悩ませる日々。

別に誰かと約束をしたわけではないので、辞めてしまってもいいのだが、10 ヶ月も続けていると勿体なくて、辞めることもできない状態。

しかし、なぜここまで note が書けないのか?

別にライティングが苦手なわけではない。得意とは言わないが、仕事でブログを月 2~3 本は書いていた時期もある。むしろ社内 Wiki は積極的に書く方だし、社内の日報のフリーテキスト欄では驚くほど饒舌だったりもする。

だが、こと note になると、とにかく書けない。note の連続投稿を続けるにしろ辞めるにしろ、自分の中で理由を明らかにしておきたくて考えてみました。

一番は、「不用意に誰かを傷つけてしまわないか?」とを気にしているというのが本音です。いずれも「不特定多数の誰が読むかわからない」という note に限らない外部メディアの特性が起因しているように思えます。

テキストコミュニケーションは無機質になりやすいため、社内のチャットでも苦労されている方は多いと思います。社内であれば、すでにある人間関係がオブラートに包んでくれることもありますが、note のように関係性のない不特定多数の人が読む可能性があるとなると、そうはいきません。

書き手は人を傷つけるつもりはなくても、アンコンシャス・バイアスによって、不適切な表現をしてしまうことがあります。日本語の漢字にはバイアスを含んだ表現があるので、難しいところです。(五木寛之さんの記事を読むと、非常によくわかります。)

憲法で男女同権が宣言されたとしても、なぜ、〈男〉が先で、〈女〉が後につづくのか。

私たちがふだん使っている言葉にしてもそうです。

〈嫉妬(しっと)〉という字は、まるでジェラシーが女性専門の感情のような組み立てです。実は男性のほうが、はるかに嫉妬深いことは、私自身よくわかっていることですが。

五木寛之さんが語る【こころのレシピ】無意識の偏見について

子供と買い物に行った際に、ついうっかり「お店のお兄さんに聞いてみな」と言ってしまったことがあります。その方の性自認が男性なのか女性なのか、はたまた別の性なのかわからないので迂闊な発言です。性を区別しない「店員さん」と言えばいいのですが、何かのクセが残っていると、迂闊な表現をしてしまうことがあります。

自分の note は一部の知り合いが読んでいることがほとんどなので、不特定多数であることを過剰に意識する必要なないのですが、どうしても気になっちゃいます。

果たして、来月も無事に記事を書くことが出来るのか・・・今月の記事を書ききってホッとしたのものつかの間、もう来月が不安でたまりません。

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