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こつこつ京都学

Vol.16 20240511
#現地へGO 04 京都四か本山その1

こんにちは、「こつこつ京都学」主宰の佳子(よしこ)です。

京都検定では毎年、1級から3級の各級に「公開テーマ」を設定し、テーマに沿った問題が10問出されることになっています。
京都商工会議所のホームページで発表された2024年の京都検定の「公開テーマ」は下記の通り。
京都検定第24回(7月実施) 3級のみ
【3級】 京の涼さがし 
京都検定第25回(12月実施)1〜3級
【3級】 京の年末年始 【2級】 紫式部と京都 【1級】 法然上人

おお、1級は法然上人だ!と思っていると、早速、京都検定1級に挑んでいる同級生のNさんからメールがきました。
「佳子さん、noteで最初に浄土宗850年、知恩院を取り上げたのは、ばっちりだったじゃない!だけど、浄土宗にはいろんな宗派があるから、さらに要勉強ね!」

2級は択一式なので、4つの中から確実に存在する1問の正解をチェックすればいいのですが、1級は筆記式。確実に正解が頭に入っていて、かつ、漢字の正確さが問われます。ふえ〜。ともかく法然上人、浄土宗、同宗寺院について勉強をしておかなくては。

前にnoteで「浄土宗」「知恩院」を取り上げた時に、浄土宗には
○京都四か本山
総本山「知恩院」 大本山「金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」 
大本山「百万遍知恩寺」 大本山「清浄華院(しょうじょうけいん)」
○西山三派(せいざんさんぱ)西山浄土宗、浄土宗西山檀林寺派、浄土宗西山深草派
○増上寺
があると書きました。

まずは、京都四か本山のうち、知恩院以外の3か寺に行ってみることにしましょう。大本山「紫雲山くろ谷 金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)」にレッツゴー。

浄土宗第一号の寺院、念仏発祥の地

京都市左京区黒谷に広がる金戒光明寺は「白河禅房」「くろ谷さん」とも呼ばれます。
私は大阪から京阪電車に乗って「神宮丸太駅」で降り、ぶらぶら黒谷エリアに向けて歩き始めました。閑静な住宅地を抜け、少しずつゆるゆると上り坂になり、門から入ると、広大な敷地にお寺があります。


「くろ谷さん」金戒光明寺。「京都守護職本陣」「後一条天皇陵 陽成天皇陵の参道」の表示も

15歳で比叡山に登った法然上人(源空)が、43歳の1175(承安5)年に比叡山での修行を終え、師の叡空(えいくう)から譲られた「白河禅房」で、浄土宗で最初の念仏道場を開きました。
念仏をした時には、紫雲が全山にたなびき、光明があたりを照らしたとされます。
そこが浄土宗京都4か本山の一つ、現在の金戒光明寺となります。
開山・宗祖はもちろん、法然上人(源空)。

念仏道場が「紫雲山光明寺」となったのは法然の没後。さらに、後光厳(ごこうごん)天皇から「金戒」(こんかい)の文字を賜り、「金戒光明寺」という名前になりました。
応仁・文明の乱以降、何度も焼失したものの、そのつど再興されます。
京都の街も、寺社も、ともかく応仁・文明の乱をはじめ火事や戦乱で焼かれ続けています。第二次世界大戦こそ逃れたものの、そもそも京都は焼失の歴史を背負った街って感じです。

駐車場を抜けると、山門が見えてきます。
楼上正面には、後小松上皇宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額が掲げられています。
法然の開いた浄土宗の教えが、ここから始まったことを示しています。

威風堂々とした山門の楼上正面には後小松上皇宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額

金戒光明寺が所蔵する法然上人像は、絹本著色「鏡の御影」として知られています。
鎌倉時代、絵の得意だった法然上人の弟子が上人の姿を描き、賛(画中に題する詩文)を求めたとき、上人は鏡二面を左右の手に持ち、水鏡を前にして姿を映し、似ていないところを直して返したという逸話に基づいているのですって。
その後の法然上人の画像の型が、この鏡の御影に基づいて流布していることを考えると、金戒光明寺の御影のもつ意味は大きいといえます。
鏡の御影は京都府指定文化財で、毎年4月25日の上人の命日の法要・御忌(ぎょき)には一般に内拝できます。


境内の北東には会津墓地があり、幕末の会津の戦死者が祀られている

幕末には、金戒光明寺に京都守護職・松平容保(会津藩主)の本陣が敷かれました。
幕末を描く大河ドラマには必ず松平容保が登場しますよね。
「翔ぶが如く」「徳川慶喜」「新撰組!」「八重の桜」「青天を衝け」などに描かれ、イメージ的には、筒井道隆さん(新撰組!)の印象が強いでしょうか。
金戒光明寺の山上には、会津の殉難者の墓地もあります。
ここに本陣が置かれたのは、寺が城構えだったこと、京都の要所に近いこと、1000人規模の軍隊が駐屯できることなどの理由です。

私は境内の御影堂、阿弥陀堂、三重塔とめぐり、境内にある茶屋の「快庵」で昼食にきつねうどんをつるつるすすりながら、亡くなった祖母のことを思い出していました。
以前からこの金戒光明寺を訪れてみたいと思っていたのは、明治生まれの祖母から、「かつて黒谷に住んでいた」と聞いていたからなのです。

三重県生まれ・育ちだった祖母がなぜ、京都の黒谷に住んでいたのか…。
寝たきりで記憶があやふやになった高齢の祖母の病床を訪ねると、もう目の前の私が自分の孫だとは理解できませんでしたが、「大阪から見舞いにきてくれた、自分を古くから知っている人」として、ぽつぽつと話してくれました。
襖や障子など建具の仕事をしていたらしい父親の関係で京都に移住した時期があり、「妹と二人で、黒谷から御所の向こうにある学校まで歩いて通ったのよ」


三重塔から京都市街地を臨む。祖母が見た風景に違いない

金戒光明寺の三重塔は、京都市街地が望める高台でした。
そこから市街地を眺めながら、祖母と大叔母の姉妹が二人、2キロ先の京都御所をさらに横切って通学したのかとその距離を考えると驚きました。
実際に黒谷のどのあたりに住んでいたのか、どこの学校に行っていたのか、祖母が亡くなった今は知る由もありません。
祖母の長女である私の母も認知症になってしまい、試しに聞いてみましたが、「知らないわ」。

「おばあちゃん、私は今、くろ谷さんにいるよ」
空を仰いで呟き、私の中に少しだけ京都のDNAがあることを確認した後、次のお寺、「百万遍知恩寺」に向かったのでした。

金戒光明寺の建築、寺宝などについて一覧にまとめておきます。

御影堂(大殿)


御影堂(大堂)の内陣正面には法然上人の御影(坐像)。右脇弾には吉備観音、左脇弾には中山文殊を安置する

昭和19年再建。内陣正面には、75歳当時の法然上人の御影(坐像)が掲げられている。右脇壇には吉備観音、左脇壇には中山文殊を配置。

吉備観音(重要文化財)

遣唐使吉備真備(きびのまきび)の難を救った観音様。かつては吉田寺(廃寺)に祀られていた。交通安全、厄難消除、安産のご利益があり、洛陽33所観音霊場第6番の札所。

文殊菩薩・渡海文殊形式(京都市指定文化財)

文殊菩薩(中山菩薩)と脇侍は運慶作と伝えられている。元は中山宝「巾童」寺(ほうどうじ)の本尊で、応仁の乱で廃寺に。
徳川秀忠の菩提を弔うために、金戒光明寺に三重塔が建立された時に、本尊として奉納され、のちに御影堂に移動。
獅子に騎乗する文殊菩薩を中心に、手綱を執る優填王(うてんおう)・仏陀波利用三蔵(ぶっだはりさんぞう)・最勝老人(さいしょうろうじん)の4躯が京都市文化財に指定されたのを機に、経年の傷みや剥落を修復。欠失していた善財童子(ぜんざいどうじ)を新調し、渡海文殊形式が整った。
金戒光明寺の文殊、奈良の「安倍の文殊」、天橋立の「切戸の文殊」は、日本三文殊として信仰を集めました。

阿弥陀堂


豊臣秀頼が再建した阿弥陀堂は洛陽四十八願所の第25番、善光寺四十八願所でもある

1605(慶長10)年、豊臣秀頼再建。金戒光明寺の中で最古の建築。本尊の阿弥陀如来の腹に、恵心僧都が彫刻で使ったノミが収められていることから、「おとめの如来」「ノミおさめ如来」と呼ばれています。

三重塔(重要文化財)


徳川秀忠公の菩提を弔うための三重の塔。塔内の中山文殊は御影堂に移した

徳川秀忠の菩提を弔うため建立。京都市内にある重文の三重の塔は、金戒光明寺・清水寺・泰産寺(たいさんじ)の子安塔の3つ。

寺宝

山越阿弥陀如来図屏風(重要文化財、非公開)
伊藤若冲「鶏図」(非公開)
一枚起請文(法然上人真筆御遺訓ごゆいくん)法然が入滅する1212(建暦2)年正月23日の2日前に自ら筆をとって弟子の源智に与えた。毎年4月23日、24日の御忌法要で一般に内拝できる

塔頭「西翁院」(さいおういん)

江戸初めの茶人、藤村庸軒好み 茶室「澱見席」(よどみのせき、重要文化財)。道安囲い(どうあんがこい)宗貞囲い 仕切り壁で手前座と客席を隔てる。

<続く>

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