「ガス抜き言論」への違和感と不信感

人々の溜飲を下げるためだけに存在する主張を指す。これには大きく分けて2つ、非論理的言論と一見論理的な言論が存在する。

非論理的言論

Twitterでは一部において社会の掃き溜めのような言論空間が広がっている。概念で概念を屈服させようとする無意味な論争や、n=1の経験を真理だと思い込んだ喧伝、権威性を持つ組織や科学的知識の否定、明確な善悪の区別。

彼らの論理は非常に分かりやすく、そして論理的に間違っている傾向がある。

私はaによって傷ついた。だからaが属するAというグループは悪である。1人のbである私を含めBというグループに属する人々はAグループを糾弾しなければならない。

xという悲惨な出来事があった。これはYによって行われたものだと噂で聞いた。そんなYを信用することはできないし、Yと親しいZも同類だ。

このような論理構造をもつ文章を見かけるたびに私の精神衛生は悪化する。この世には話が通じない人間が存在し、いつか自分自身を対象にして攻撃してくるのではないかという恐怖を感じるのだ。

彼ら自身はそのような意見を発信することで「ガスを抜い」ていると思われる。

一見論理的な言論

わかりやすく具体例を挙げるなら「ひろゆき」である。彼は論破の天才であり、彼の言うことは正しいと思える。

彼の有名な政治主張で「生産性が向上するのでベーシックインカムを導入すべきだ」というものがある。確かにベーシックインカムで人々に経済的余裕を与えることにより、自己投資のチャンスが増え、思いもよらないイノベーションが起きる可能性は高まるかもしれない。

しかし、ベーシックインカムは生産性向上の政治的な最適解なのだろうか?

生産性を向上させるには教育が重要である。またイノベーションを阻害しないためには法律の規制が緩いことが重要だ。これらの事実は誰でも知っているのだが行政は無能なので生産性に無関係な分野に過剰な予算の配分を行う。であるならばベーシックインカムで社会保障を一本化するほうがマシだろう。この論理は一見正しいのだが、根本的な問題解決には至っていない。

生産性が向上しない根本的な原因は行政の無能にある。であるならば政治的な解決策として最も有効なのは行政を有能にすることだろう。

ひろゆきは表面的に正しいことを言う。それらの言説はドライで分かりやすく爽快感があるため人々の「ガスを抜く」ことに成功している。しかし根本的な解決策が提示できていないことも多々見受けられる。

「ガス抜き言論」の問題点

これら2種類の「ガス抜き言論」は現実に即さない仮想現実であることが共通している。しかし「ガス抜き言論」は肥大化することでその仮想現実が現実のものとして認識されうる。本来は存在しなかった分断が生まれ、必ずしも正しくないことが絶対的に正しいとされてしまう。逆も然り。

「ガス抜き言論」を信じない人が多くいたとしても、実際に声を上げる人がいないのならばそれは存在しないのと同じである。言論空間において信者の意見が強くなる。

人類史で幾度となく繰り返されてきた愚行を我々は永遠に続けるのだろうか。

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