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断捨離で悟った①「もったいない」への抵抗と隠れた原因。足りていない症候群

ぼちぼち取り組んでいる断捨離。私の中では「物の最適化」と言う方がより正確な気がする

身の回りの物を最適化する、
その過程の一つ、「断捨離」

今回は、断捨離する中で気づいたことをお話しします


「もったいない」への抵抗

手放しに抵抗感があるのは、まだ使えるものに対してである。「もったいない」まだ使える。でも、ずっと使っていない、そんな物たち

それらと向き合う中で気づいたことがある

①まだ使えるものを手放す・捨てることに対する抵抗感と罪悪感

“物を大切にしましょう“と教えられてきた私たちは、それ自体は悪くないのだけれど、大切にする=大切にしないといけない=大切にしないことはいけないこと、悪いこと と、思ってしまう。
ある種の縛りにも近い

②実は多い「中間の物」

でも見渡してみると、実際は「大切にしたい・している物」でもない中間の物の方が多い。その、そのままにしていた中間の物と向き合う機会が断捨離であり、片づけである

宙ぶらりんになっていた物たちと向き合い、手放すものは「ありがとう」と言って捨てる

③宙ぶらりんを解消する作業

仮に大切にしないことが良くないこととするならば、使わず置いてあるその状態はどうなのか、それはものに対して曖昧な態度をとっているとも言えないか。好きなのか、好きじゃないのか、思わせぶりな態度でただただ待たせてお付き合いいただいているとも言えないか

物と向き合い、関係を精算する

まだ使えるものを活かしきることなく手放す・捨てるのは悪かもしれない

でも、自分の曖昧な態度のまま留まってもらうのもどうなのか。物にとっての“物生”(人は人生。物は物生)があるのなら、無駄な時間をつなぎとめておくことも失礼かもしれない。ここは次に行ってもらう、進んでもらうのも、選択していいと思っている

個人的には「精算」という表現が近い

物との関係を、その物と向き合うことで曖昧をスッキリさせて精算する。そんな感覚

ありがとう、次に行ってくれ!
そう、男女関係のように。笑

物からは自発的に離れられないのだから、それは持ち主が選択するしかない。曖昧な態度に付き合わせず、スッキリお別れするのだ。そう、お互いが次に進むために


「手放す」ことができるかできないかは、
「ある・ない」の差

まだ使える物を手放すことに罪悪感を感じる、そこにはもう一つ隠れた思考がある

それは、自分自身、足りている実感があるかないか、ということ

「ある/足りている」か、「ない/足りていない」か、どちらがベースかで変わる


今の自分の心の状態が「自信がある・満足・足りている」がベースであれば、手放せる
捨てても(必要であれば)また手に入るから手放してもいい、となる


逆に、「自信がない・不安・不足している」なら手放せない。または手放す時の抵抗が大きい。また手に入るか分からないから不安。次は手に入れようとしても手に入らないかもしれないという思考で、手放せないのだ

これが、「もったいない」ものを捨てる罪悪感に隠れた思考である

ということに気づいた


捨てられないのは自分の心が「足りていない」と思っているから


具体的には「お金の余裕がない」が分かりやすいと思う。

例えば、あともう少しでもお給料が高ければ貯金もできて心の余裕が生まれるのに... とか、今の金銭的な状況に不安がある場合、不安感が自分の中で大きいと、物を手放すことがメンタル的にすごく大変

“不足している“から“手放せない“になってしまうのだ

反対に、今十分幸せを感じていて、お金持ちでも何でもないけど、元気で好きなこともそれなりにできて、充足感があるならば、今使っていないものや、そのままになっているものをポーンと手放せる。そこに抵抗感は無い。だって、もう足りているから


お金に限らず、日頃自分が「あれがあればいいのに」「これを手に入れたらもっと自分は幸せになれる気がする」思考があるなら、それは足りていない症候群かもしれない(今勝手につくりました)

「買って満足する」ってやつ、あると思うのですが、それもこれに入ると思っています

そして繰り返してしまう。これは、根本が解決されていないから起こることかもしれない

その根本が、足りていない「ない」がベースにある思考。まずその存在に気付いて、向き合う
自分との時間を大切に。自分と向き合う時間を設けることって実はとても価値がある

長くなるので今日はここまで。②ではそんな不足心を手放すトレーニングについて話を進めていきますね☺️👍

じゅんぐり回していきます☺️ 忘れた頃に、大きく育ってあなたのもとにも還りますように🙌🏼