『エヴァンゲリヲン新劇場版』シリーズ

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その分析、考察についてはさまざまな人々によりさまざまな形でなされているし、本作に関してはあの世界観を具に理解することそのものには個人的興味はそれほどない。なのでとにかく思ったままの感想を思ったままのやり方で書く。

アニメ版、旧劇場版については、フランスに暮らしていたころ、日本での放映から数年ほど遅れて、日本文化会館か何かでビデオをレンタルして観た。そういう事情なので、私は日本におけるエヴァ旋風をリアルタイムでは経験していない。当時はまだネットで得られる情報はごくわずかであり、「とりあえず日本で大流行しているらしい」程度のことしか知り得ないなかで、アニメにはそれほど興味はなかったもののとにかく日本語を聞きたくて観た。始まりはこんな感じである。

内向的で怖がりでいつも逃げたい主人公。これだけでもなかなかのインパクトはあった。まあとにかく暗いし。王道のパンチラも鬱陶しかったが、鬱陶しい以上にとにかく怖い。率直に言えば私が抱いたのはそういう素朴な感想だった。碇ゲンドウなんかはむしろ大して恐ろしくはなく、それよりミサトや加持さんやその他もろもろ、一見そうとは見えない人たちがときどき一瞬だけ見せる不穏さが怖かった。その得体のしれない闇深さはジェットコースターみたいに結末へと突き進み、私はそれを消化するどころか咀嚼さえもできず、怖い、とにかく怖い、ああ怖い、アニメ版最終回なんてもう怖さマックス、劇場版に救いを求めて観てみたら、怖いどころか地獄。結局エヴァとは何だったのかを振り返ることさえやめて、私はそれに蓋をしたのである。

これは作品に対する称賛の言辞ではない。かといって酷評したいわけでもない。当時の私には「手に余った」のである。いろいろな意味で強烈なインパクトだったことは間違いないが、当時の私に必要なものだったのかどうかはわからないということだ。私の琴線には確実に触れたが、それ以上どうこうしたくはなかった。

新劇場版公開後もしばらくは観る気がしなかった。シンエヴァ公開から数年たったいま、急に観てみようかという気になった理由はよくわからないが、まあ理由はどうでもいい。序破Qシンエヴァ、一気に観た。

簡潔に感想を言えば、「ずいぶんきれいに小さくまとまったんだな」であった(これは必ずしも批判的な意味ではない)。そしていまさらながら、この作品は旧版を含め、庵野秀明の心象風景なのだなと思った。作品というのはおおよそそういうものだとは思うが、エヴァに関してはその「私的なもの」である度合いがある意味では度を越している。エヴァが使徒化して、もげた腕がニョキッと再生する感じ。ああいうパーソナルの「過剰さ」「苛烈さ」みたいなものが旧作から確固として横たわる通奏低音である。旧作では自身でも持て余すような「恐怖」や「怒り」、その他さまざまな欲望、絶望を、そのまま作品に放出した。片付かなさを片付かないままに。新劇場版ではそうした「片付かなかったもの」にかたをつけたわけだが、そしてそれはおそらくちゃんと片付いたのだが、私は予想外にもそこに引っかかってしまったのであった。

庵野秀明の「片付け」は、私も年齢的によく理解できるし共感もできる。むしろ私もそこに辿り着こうとしているくらいだ。だから本来は、新劇場版を観たら私も何かが片付くはずだった。ところが不思議なことに、「マジで?」と私は微かに思った。本当にそうなのか?と疑問を抱いてしまったのである。だから端的に言えば、実は私が共感するのは、新劇場版ではなく旧作のほうだった。新劇場版では私の身体は振動しなかった。

これはかなり予想外の結果で、それが何を意味するのかはまだよくわからない。しかしいずれにせよ、庵野秀明の極めて私的な物語が、私(そしておそらく、制作スタッフを含めた他の多くの人々)の極めて私的な部分に触れるというこの出来事は、それほど簡単に実現されるものではないだろうとは思う。率直に言えば私はエヴァファンでも庵野ファンでもない。それでもなお、その存在感は「鬱陶しい」ほどに「極めて過剰」である。そういう作品もこの世にはあるのだという体感。これが私がエヴァを通して得たものである。


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