完全初見で「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を見た感想

タイトルの通りである。
TVアニメシリーズとして放送されていた「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を私は全く見ずに、総集編の映画も全く見ずに、「劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」を、私は見た。その感想を書いていこうと思う。
ちなみにこの文章を書いてる時点で総集編の「ロンド・ロンド・ロンド」を見ています!

以下、普通にネタバレを含みます。













結論から言うとめちゃくちゃ面白かった。

画面から迫り来る熱量が凄まじい。
傷つけ合いながら紡がれる思春期のモラトリアムからの脱却というテーマ。
それでいて全員が希望に溢れた道を歩く満足感。
我々観客にまで役割を与えてくる構成。
「舞台」というものに全てを擲つ少女たちの残酷なまでに美しく醜い生き様。
どれも私が創作物において見たかった、感じたかったものでした。
本当に面白かった。分かります。


ここからは順序立てて・・・はないかもしれないけど話していくぞ!

まず冒頭のトマト。
爆発したね。
なんで?
あれかな?
熟れすぎた実は形を保てず破裂する、とか。
感情・衝動が溢れて爆発をする、とか。
滾るマグマのような熱情、だとか。
そういう表現かもしれない。
熱い思いを表しているのだということと理解した。
実際、後の演出で決意の表明のようにトマトにかぶりつくシーンがある。

東京タワーでなんかやってる冒頭のシーン。
これは?なに?
正直まだ分からないが華恋とひかりの煮え切らない決別なのだろうか。
華恋は明らかにひかりの退学・離別を引きずっている。
みんなが自分なりに進路を決めていたり決めあぐねている中で華恋だけは何もないのだ。
「何故、行ってしまうのか、友よ」
鬼気迫る演技の華恋。スタニスラフスキーシステムだね。
どんどん挟まれていく回想シーンを見るに、華恋の舞台に立つ理由が「ひかりちゃん」そのものなのだろう。

みんなが自分の現状に折り合いをつけて進路や今度の見学の件について話す中、大場ななの「皆、喋りすぎだよね」
これにはドキッとした。
この少し後の皆殺しのレヴューにて、戦いのルールを説明するように星を弾いて上着を落としていく。
ここで私もこの作品で起こることの理解ができた。
曲に感情をぶつけるという構造も理解した。
そしてその後だ。
「なんだか、強いお酒を飲んだみたい」
「だ~か~ら~、なんだか、強いお酒を飲んだみたい」

分かる。めちゃくちゃ、分かります。

言葉にすると失われるものがある。
演じることにより生まれ、表現という場に卸すことで初めて全身と心で受け取ることのできる神秘がある。
これは感覚的なことだと思う。
ここで私が役者をしているということをしれっとカミングアウトするのだが、ダメ出しの時に「ここはもっと熱く」とか「もっと剥き出しの感情を見たい」というようなことをことを言ったり時には例えを用いることがある。
芝居をより良くするために考えることは、やはり感覚的なことである。
理論もあるがアカデミーで学んでいない我々は、共通項である現代日本に根差した文化を背景に持つので、そこを利用しない手はない。
在るとき私は「このシーン、スピッツじゃなくてポルノなんだよね」「ここはヒロアカの1話と同じ熱さとカタルシスを得たい」などと伝えた。
もっとテンポ速くして~~ だとか、もっと力強く~~ だとかでは取り漏らしてしまうニュアンスを伝えるためにこのような手法を利用した。
しかしだ、それで「つまりどういうことですか?」というようなことを聞かれることがある。
違うんだよ、俺が言いたいのは、ここの動作を素早くしろだとか、このセリフの音程を高くしろだとか、そういう手段の話しじゃないんだ。
このシーン・セリフ・音響・照明・舞台美術に込められた思いを、「お前」がどう受け取って吐き出すかなんだよ。
小手先だけの美しさをなぞるような、表面だけの芝居はいらないんだ。
登場人物の、役のセリフを通して「お前」の剥き出しの感情を無様でもいいからさらけ出して欲しいんだよ。そこで初めて観客の心が動くんだよ。何故か涙が出るんだよ。

深夜に書いているので長い駄文を載せてしまったが、これが私の芝居論です。
でも明日には変わっているかもしれません。
日々進化するから。

舞台に生きるって言うのは、芝居をするって言うのは、本当に辛くて、しんどくて、ゴールがない先の見えない険しい作業なんです。
本番一つ一つで自分の全てを燃やし尽くさなければ作品は良くならない。
舞台に乗ると一回一回我々は死ぬんです。
その醜さ、もがき、苦しみをこの「 少女☆歌劇 レヴュースタァライト」は描ききっている。
「アタシ再生産」これはものすごい言葉だよ。
舞台に立つ度に死ぬ我々役者をとても端的に言い表せていると思う。

この作品はレヴューを演じながらお互いの本音をぶつけ合い本当の自分に我が儘になることが重要視されている。
一見進路を決める・卒業というテーマとは相反するような子供のような心理であるが、彼女たちは舞台少女、役者だ。
その剥き出しの感情の自認こそ次のステップに必要なのだ。
それって非常に辛い。残酷やで。

だから、最後の台詞が、長い長い役作りの末放たれた時にこちらの感情も爆発してしまった。
そうして大爆発を起こした後、嘘みたいに空っぽになる。
でも、また新しい実をつける。投げ渡されたトマトってそういうことじゃないかな。

あと、物語の登場人物である少女たちがレヴューにおいて役を纏い、それを剥がし合うことで確かにそこに剥き出しの「人間」が存在していたのがとても良い演出と芝居だと思った。
キャラクターじゃない。「人間」だったよ。間違いなく。

あとさ~~バミリの持つ意味よ!
バミリってのは床に貼る目印で、センター(ポジションゼロ)だったり、照明の当たる位置に置くわけ。
それを踏み越えていく演出!これは痺れたね。
与えられた役・立場ではなく、それを超えて行く強い意志に心奪われちゃった・・・


とまあ、こんな感じで書き殴りに殴ったよ!
全然順序立ててないわ!草!!

最後にひとつ

大場なな推しです!

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