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障害児は育てたくないと選り好みするくらいなら子供作らないでくれ


前の投稿で、「万が一、障害児が生まれてきたら…」と考えて想像したくない人は、絶対に子作りしてはならないと主張した


今回はもっとガチで書く。

障害児を望まない親のもとに、障害児が命を宿して、胎児が殺されたり(人工妊娠中絶)、渋々育てられた結果子供が愛着障害や二次障害を起こしたりする悲劇を一件でも防ぎたいからだ。

下記2つの前提を元に読んでいただけたらと思う。


前提1
「障害=不便」なのは事実だけど、必ずしも「障害=不幸」ではないこと。
障害者であっても、前向きに楽しく暮らしている人もいるだろうし、障害者はネガティブなイメージでひとくくりにされるものではないこと。


前提2
当投稿では新たな命を生み出すことの是非を問うているのであって、今生きている障害者の存在を否定するものではないこと。


以上を踏まえて読んでいただけたら幸いである。




この考えに至った経緯

私が今の考えに至ったのはここ数年のことである。
若い頃はなんにも考えていなかった。

看護学科の1年生だった頃、生命倫理の講義で、「もし妊娠した子が障害児だと分かったら産むか?堕ろすか?」というテーマで学生同士で意見交換したことがある。

当時の私は、将来子供を持ちたい願望はあったものの、自分が障害児を妊娠するとか現実的に考えられなくて、とりあえず綺麗事っぽいことを言ったように思う。
「産んだらいいやん、んでこれから障害児が暮らしやすい社会を作っていったらいいやん」みたいなことを話したと思う。

今思うとぬるい寝言だ。



そんな自分が今の考えに至ったのには、大きく二つの理由がある。


理由一つ目は、障害者を取り巻く状況の闇を知ってしまったことだ。
どういう経緯で知ることになったのかは詳細を差し控えるが、闇を知ったことで、看護学生の頃のような綺麗事はとてもじゃないけど言えなくなった。

私が最も闇だと感じたのは、障害者が、被害的立場を経て加害的立場になってしまうこと。

児童相談所の調査によると、障害を持った子は虐待を受けやすいとされている。
身体障害児の場合は健常児と比較して4.3倍、知的障害児の場合は13倍も虐待を受けているというのだ。

また、知的障害や発達障害、自閉症スペクトラムなど、社会性にハンデのある障害を持つ子は、いじめを受けたり、悪い人に騙されたり利用されたりもしやすい。
本来はケアの対象となるはずなのに、そうした被害経験によってネガティブで攻撃的なパーソナリティに育ってしまい、そのために様々な支援の手からも、地域社会からも、仲間や親族からも孤立してしまい、そうして守るべきものがない「無敵の人」になってしまう中で、犯罪に手を染めてしまう障害者は少なからずいる。
少年院や刑務所には、障害を持っていると疑われる人が非常に多いことは知られている。



理由二つ目は、ただでさえ子供を作ることは大人のエゴであるのに、五体満足な子を願うなんて厚かましいにもほどがあること。

子供を望む理由は、ほとんどが産む側の都合である。子育ては楽しそうだとか、みんな産んでるからとか、老後に一人はさみしいとか。

子供は、親の人生を充実させるための人身御供だ。
自分の人生の充実のために命を欲しがるって、ただでさえ強欲なことなのに、さらに障害児は嫌だとか選り好みするなんて図々しいの極みである。





ここまでの私の主張に対し、「最初は障害児を望んでいなかったとしても、育てていく中で愛情が湧いて、親も子も幸せになれる未来もありうる。子作りするなということは、幸せさえも生まないことに繋がるのではないか」という考え方もあるだろう。

しかし、生まれて良かったかどうかは子供が判断することだ。
生まれて良かったと思う子もいるにしても、「生まれないほうが良かった」と子供が判断して、状況の改善の余地がない場合には、取り返しがつかないのだ。

また、「障害のある子も安心して暮らせる社会をこれから作っていけばいい」という考えもあるだろう。
それはそうあるし、今現在も障害を持つ人が生きているのだから、社会を良くしていくのを諦めないのはすごく大切なことだと思う。
しかし社会を変えていくのは容易なことではないのは想像つくはず。
「とりあえず産んでこれから社会を良くしてったらいいじゃないか」という考えは一見ポジティブに聞こえるが、どうも他人事感、綺麗事感が拭えない。





産まれる側視点、産む側視点から一度想像してみてほしい。


◎生まれる側視点から

もしあなたが重度障害をもった子供だとして、最も身近で絶対的な存在である親から、生まれてきたことを歓迎されず、渋々育てられるって辛すぎませんか?
そんな針のむしろのような家庭に耐えられますか?




◎産む側視点から

もしあなたが妊娠して、出生前診断を受けたとして、お腹にいる子が障害児だったと分かったとき、「なんで私の子が障害児なの」と貧乏くじを引いたような気持ちになる可能性はないですか? 

出生前診断の結果によって堕ろす(胎児を殺す)選択をしたとき、絶対に後悔しないと言えますか? 

殺してしまった罪悪感に苛まされないと言えますか?

中絶する勇気なく、ズルズルと消去法で産んで渋々育てる可能性はありませんか?

出生前診断で「大丈夫ですよ」って結果貰ったから産んだのに、生まれてから発達障害や知的障害が分かったとき、あなたは受け入れられますか?

出生前診断では見つからない重度障害の子が生まれてきたとき、あなたは終わりの見えない介護に忙殺されることに耐えられますか? 


これらの質問に少しでも引っかかるものがあれば、どうか子作りを思いとどまってほしい。




「望まない生命訴訟」「望まない出生訴訟」を聞いたことはあるだろうか。
どちらも出生前診断の普及が進んだ1970年代にアメリカで頻発した訴訟だ。
出生前診断があることを医師から知らされずに妊娠を継続し、障害のある子が生まれたとき「中絶の機会を奪われた」と医師や病院を訴える訴訟である。
この訴訟のうち、親が訴えているものを「望まない出生訴訟」、障害を持って生まれた子供本人が訴えているものを「望まない生命訴訟」というそうだ。
この訴訟では、命そのものが損害とみなされている。なんとも残酷な裁判である。

「さすが、アメリカは訴訟社会ですなあ…」というのが私の率直な感想であるが、日本でも「生まなければよかったんじゃないか」あるいは「生まれてこなければ良かった」と一度でも苦悩したことのある障害者・その親は少なからずいるのではないだろうか。




反出生主義者の私の考えは、世の中に多くにとっては極論に聞こえるかもしれない。
それでも少しでいいから考えてほしい。
「障害児だったら育てたくない」そんな意識があなたの中にないだろうか。少しでも思い当たる部分があるならば、どうか子作りを思いとどまってほしい。
命はすごく大切だ。
だからこそ命を作り出すということに対しても慎重な姿勢であってほしい。