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人生超ハッピーであっても私は反出生主義を支持し続ける


人生超ハッピーであっても私は反出生主義を支持し続ける。

反出生主義は不幸な人間の戯言だという誤解は多い。
物事を悲観的に考えすぎだ、人生楽しいことだってあるのに不幸ばかり見るなんてかわいそうな人だ、という声も聞く。

確かに反出生主義者の中には、虐待や貧困、病気などで苦労をしてきた人も少なくないが、そうした経験は、反出生主義の入り口の一つに過ぎない。

私たちは子供を産むことが善であると、義務教育の頃から刷り込まれている。
道徳や保健、家庭科の教科書には、「子供を産み育てる」ことが自然で、正しい人生のお手本であるような物言いが載せられている。
社会には「結婚して子供を作るのがスタンダード」という風潮が残っているし、命の誕生はとにかくおめでたいこととされ、出産は無条件で賛美される。

よほど物事を深く考えられる人や、自分をものすごくしっかり持っている人じゃない限りは、何かきっかけがないと、出産賛美の風潮に疑う機会は無いのではないだろうか。

苦しみの経験は、出産賛美の風潮を疑うきっかけになる。それゆえに反出生主義者には、苦しみの経験のある人が多いのでないだろうか。



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私が反出生主義になった要因は、自分自身の負の経験と、世の中の綺麗じゃない部分を見てしまったこと、この二つがある。
私は発達障害や生育歴の問題を持っていて、自分のような経験をもう誰にもしてほしくないと思っている。
また風俗勤めや精神科勤め、現在の勤め先を通じて、世の中には頑張っても報われない人や、頑張る土台すらない人がいることを知った。この世界ではまじめでやさしい人が報われるとは限らない、むしろそういう人が壊れていきやすいことも知った。
平凡に生きてきた人が突如の不幸に見舞われることがあるのを知った。
知っている人が労苦や病苦で自死していった。
こうした出来事の積み重ねで私は反出生主義に傾いていった。

これからの自分の人生全てが薔薇色で、少なくとも自分の目に見える範囲はハッピーで溢れる環境になったとしても、私は反出生主義を支持し続ける。

反出生主義は不幸な人間の戯言ではなく、イズムの一つである。
苦しみは入り口に過ぎないので、それがなくなったとしてもたどり着いた主義が消えることはない。

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刑事裁判の世界にこんな言葉がある。
「99人の罪人を逃すとも 一人の無罪を罰するなかれ」

たとえ99人の罪人を逃したとしても、一人の無実の人を処罰しては絶対にならないという意味である。

反出生主義もこれに非常によく似ている。
99人の幸せな人を生み出さないことになったとしても、一人の不幸な人を生み出すことは絶対にしない、これが反出生主義の考え方である。
「不幸な人がいる」という事実は「幸福な人がいる」という事実より重い。

自分が幸せな99人側であってもこの考え方は揺るがない。