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【反出生主義】インターネットの片隅の小さな声が、何かを必要としている人にどうか届いてほしい


反出生主義に関する投稿数が気付いたら2桁に達してる。
何かに反対するのいうのはエネルギーを消耗するものであるが、それでも私は反出生主義を伝えていきたい。


私が反出生主義を唱え続けるのは、大原則としてはまだ生まれていない命のためであるが、それだけでなく、今を生きる命のため、そして自分自身の救いのためでもあるんだな。

反出生主義は、新たな命を作ることの是非を問う思想なので、基本的には今を生きる人間のことなど知ったこっちゃないんだけど、ときに今生きている命にとっても精神的な救いになる思想だと思う。

特に下記3点の事柄について、私たちの価値観に一石を投じる要素、悩んでいる人を肯定する要素があるように思う。



1 産まない選択の肯定
世の中には何らかの事情で子どもを産まない選択をした人がいる。
自分のキャパ的に子育てできる自信がないから。遺伝性の疾病/障害を持っているから。虐待の世代連鎖を断ち切りたいから。(余談だけど被虐待児が親になったとき、高い確率で虐待の加害者になりやすいというデータはよく知られている。もちろん適切な支援や、本人の並々ならぬ努力によって世代連鎖を断ち切ったケースもあり、被虐待児は必ず虐待親になるということではないが。)


また私の知っている人で、子ども好きで自閉症児保育の仕事をしているが、自分自身は決して子どもを産まないと決めている人がいる。
仕事としては障害児に関われるが、自分の子として障害児が生まれてきたとき、幸せに育てられる自信がないからと言う。
小さな子どものうちは自閉症の特性による言動も愛らしいが、彼らがこれから成長し、青年となり、やがて中高齢の姿になったとき、その強い特性による言動に嫌悪感を抱かずにいられるか分からないと話していた。

感動ポルノでは、産む選択ばかりがハッピーエンドみたく描かれがちだけど、産まない選択だって立派な愛だ。
生まれてくる命のことを真剣に考え抜いた結果だと思うんだ。
「私は産まない」という誰かの選択が、すべてにおいて肯定され尊重されてほしい。
逃げだとか、自分に呪いをかけているだとが、決して言わないでほしい。



2 産む/産まないを自分軸で考える機会となる
子どもを産んで一人前という空気がある。
昔に比べたら少しずつ減ってきてはいるけれど、地方には未だにそういった空気は残っているなと感じる。
世間の雰囲気に飲まれて、自分が本当はどうしたいのか、考える機会を失くしている人もいるだろう。
子どもを別にそんなに好きではないのに子育てを人生の必修科目のように思い込み、同級生らに肩を並べる感覚で妊娠出産をしようとしている人が、反出生主義を知ることで一度立ち止まり、「どういう選択が自分にとってしっくりくるのか」考えることは有りうると思う。
産む/産まないっていう一つの命に関わる大選択を、自分軸で考えるか、世間体という他人軸で考えるか。
どんな選択するにしろ、それが自分軸によるものか他人軸によるものなのかで、納得度は変わってくるだろう。



3 親に感謝すべきという道徳観からの解放
日本では特に、親イコール神みたいな考えが強すぎる。
産んでくれて感謝、育ててくれて感謝…。
自分たちの性行為によって命を作ったのだから、産んで育てるのは義務であって、そこに感謝をしないといけない空気にはどうも違和感を拭えない。
もちろん親への感謝の気持ちが自然とわいてきて、心からしたいと思い親孝行するのはとても素敵なことであるが、それは全員に求めるべき道徳観ではない。
身の上話になってしまって恐縮だけど、私は子どものころ親から「誰のおかげで飯を食えていると思っているんだ」とよく圧をかけられてた。公立中学の制服とか、必須の学用品とかでも「高い、あんたには金がかかる」とネチネチ言われてきた。親からのそういった言葉の積み重ねは、私の中の何かを削っていった。
毎年母の日や父の日が近づく度に「皆んなは親に感謝できているのに、どうして自分はできないのだろう」と自分を責めていた。
しかし数年前に「産んでくれた親に感謝」とは真逆の反出生主義を知り、少しずつ自分の中で自分なりの反出生思想が熟成されていく中で、「親に感謝できない自分」を責める感情は和らいでいったのである。




最後に
反出生思想を知ることで、精神的に楽になる人が少なからずいると私は考えている。
常識に囚われている誰かにとって、反出生思想が呪縛を解く一助となれば幸いだ。
インターネットの片隅の小さな一人の声が、何かを必要をしている人にどうか届いてほしい。