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noteのきっかけとラジオ(曲紹介#1)

私は深夜ラジオが好きだ。

それはパーソナリティの考えが、この世のメディアの中で最も無加工に近い形でリスナーに届けられるからだ。加工のプロセスはパーソナリティの脳から言葉に変換されるときと、言葉を聞いたリスナーが解釈するとき、そしてラジオでの発言を書き起こして記事にするときだ。

この最も無加工に近い深夜ラジオでは、公共性と閉鎖性を保つという、とても際どいことをやってのけている。公共の電波に乗せながら、一見公共には無益な話をする。誰もが聞ける状態にありがながら、毎週聞いていないと真意が伝わらない話をする。

私は、リスナーという公共の立場から、ラジオブースを中心に形成されている閉鎖的なコミュニティを覗き込み、そこに佇むことが好きなのだと思う。映像にすると相当な変態野郎だ。そんな変態野郎なので、話し方や考え方をラジオから影響を受けていることは間違いない。

すると私もいつしか「ラジオをやってみたい」と思うようになった。

この気持ちはアジアンカンフージェネレーションに憧れた中学生がギターを握り始めるように、私もラジオパーソナリティに憧れてラジオをやってみたいと思うことはごく自然なことだと信じている。

しかし、生憎私は自分の声や喋り方、特に一人喋りが好きではない。なぜ好きではないことを知っているかというと、スマホのボイスメモで一人喋りを録音したことがあるからだ。

それでも形を変えてでも「ラジオ」がやりたかった。誰か特定の人に対して話しかけるわけでもなく、一人で抱え込むだけでもなく、他人の前ではあまり話せない自分事の話を、他人の目に晒されるかもしれない場に放ってみたくなったのだ。

私にとって居心地のいい「ラジオ」の形式はnoteであった。文章形式なので私の嫌いな私の声が流れることはないし、自分の書いた文章なら読み返しても恥ずかしさが薄い。文章を推敲する=加工することにつながるが、殴り書いているようなものなのでほとんど素材に近い。なんなら話す方が考えがまとまらなくてノイズが乗るので素材からは遠のく。

さて、「ラジオ」をやるからには番組名が必要だ。

このラジオでは自分事を話したいし、そんな自分を愛したい。でも愛せるかは自信がない。話がまとまらないかもしれないし、まとめた話も時間が経つと変わるかもしてない。そもそも続かないかもしれないし。

やっぱりやめとく?

後ろ向きになりかけたとき、人間そんなものなんだよ、ずっと過渡期ままとか言ってる歌詞が浮かんできた。

大好きなバンド、Base Ball Bearの『曖してる』である。

喜劇でも悲劇でもどちらでもねぇ
デフォルメもバイアスもねぇ
棚分けしようとすんな
曖してるのさ 曖してるのさ 曖してるのさ
無編集の世界を
(中略)
理屈も魔法も禁止にして
漠然を抱きしめる
僕ら過渡期のまま
曖してくのさ 曖してくのさ 曖してくのさ
編集の時代を

それではお聞きください。
Base Ball Bearで『曖してる』

曖昧なままの自分を愛していこう。

そんな意味をこめてnoteで深夜ラジオ『自己曖ラジオ』をやります。


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