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覚王山参道今昔

こんにちは^_^
日泰寺参道で陶芸教室・工房・ギャラリーを営んでおります歩知歩智(ぼちぼち)です。

現歩知歩智


簡単に自己紹介。
兵庫県生まれ、4歳まで大阪で育ち、奈良へお引越し、小学校2年3年生は、また大阪で暮らし、再び奈良。
大阪の短大卒業後、陶芸を学ぶ為に名古屋へ。1年で奈良へ戻る予定が気がつけば30年近く名古屋に生きております。
名古屋へ来てからも名東区→瀬戸→尾張旭→名東区→覚王山と我が人生引っ越しだらけ。
1997年に立ち上げた、陶芸教室も2度の移転をやり過ごし、何とか覚王山にて25周年を迎えることができました。
私が名古屋に20歳で来た頃の覚王山のイメージと言えば…
名東区在住でしたので、広小路を西へ走ると、星ヶ丘はデパートがあり、お町なイメージ、東山は動物園、本山はこだわりのお店があるハイソなイメージでした。で、覚王山に差し掛かると、急に瓦屋根が並び、入り口左手には六角堂と右手にはアジアン感な赤色の壁に瓦屋根の東寿司が見え、奥に連なる松並木…なんじゃここ?と言う初見の驚きは未だに忘れておりません…
名古屋に来て半年過ぎた頃に、知り合いが覚王山在住だった縁でよく覚王山でお茶したり、お買い物したりしてました。その頃から、えいこく屋さんや、ビーナトレーディングはよく通っておりました。
新栄で陶芸教室を始め3年が過ぎた頃、立ち退きがかかり、移転の為不動産探しをした時に「覚王山がいい」と思い覚王山で物件を探すも1軒も見つからず…
奈良でのほほんと生きて来たので、新栄の繁華街で1日中ビルの中で過ごし、緑が少なく瓦屋根が見えない街並みと言うのは、本当にストレスでした。
丁度その頃、生徒さんだった、megちゃんから覚王山で町おこしが始まり、空き店舗対策の募集がある事を教えて貰い、面接を受け、受かった時には涙モノでした。

この頃に覚王山祭が始まった


ご縁を頂き2000年10月覚王山へ。
その頃の覚王山と言うと、生活のお店や邸宅が沢山あり、お婆ちゃんだらけ。
食堂、酒屋、金物荒物屋、履き物屋、かき氷にみたらし団子、お好み焼き、駄菓子屋、お茶屋さん、美容院、米屋に畳屋、墓石屋などなど、コンビニが無くとも生活に困らない街でした。たまにお洒落なBARもあり遊び放題。

旧歩知歩智。まだ移転前の様子


旧歩知歩智
現在はこんな感じ

昼間には歩知歩智前に置かれた縁台にトラックがやって来て野菜やちょっとした食材の販売が始まる。そうすると、沢山のお婆ちゃんが集まり縁台に座って井戸端会議なわけです。
弘法さんの日には、酒屋さんの片隅にテーブルが置かれ、オレンジ色のビニールに包まれたソーセージがガラスのコップに刺さっていて立ち飲みが出来る。
まさに昭和が詰まった町でした。

現イヒデラージャオの前は旭屋情報館と言う
商店街が営む情報館でした。


こんな街なら私でも子供を育てれるのかも…と29歳で長男を出産しました。
案の定、覚王山で久しぶりの出産だった事もあり、息子は覚王山中をたらい回し…
朝出勤し、何処かでお昼を食べ、何処かでおやつを食べ、浴槽店のおじいちゃんに釘を打つ事を教えて貰ったり、木を切ったり、お昼寝したら歩知歩智に帰ってきて、お母さんといっしょを見始める…と言う毎日でした。
「育児って何だか思ってたより、楽ちんじゃん」と2人目を産んだら…この子が人に懐かず、眠らず、怪獣なみにめちゃくちゃ大変でした…人生甘くないのね…と思いつつも、何とか無事に2人も成長し、おかげさまで、すっかり手がかからなくなりました。

駄菓子の児嶋屋
お世話になりました^_^


 昨今の覚王山は町起こしが成功してしまい、寂しくも古いお店が消えていき、新しく沢山のお店が増え、活気ある町になりました。
 昨年立ち上がったTSUNAGU覚王山は、覚王山で育った若い人達や覚王山にご縁があり覚王山で繋がりたいと思ってくれた人達が集まっております。
 新しい覚王山の面々に、変わっても変わらない覚王山の下町文化…挨拶したり、井戸端会議のような形で下町文化の空気感が受け継がれていくと良いなぁ…と感じている日々です。

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