「上の存在」というものはそんなにも心が狭いんですか?と思った話

「選ばれた人だけが見ることが出来る!」
「これを見ることが出来たあなたは最高のパラレル!」

YouTubeやSNSでよく見かける表現。
再生数を伸ばしたりフォロワー数を増やす狙いで、見た人の優越感をくすぐるキャッチーな手法だろう。
「はぁ⁉んなわけないじゃん!Googleのアルゴリズムに引っかかってるだけじゃん!」
とひねくれてる私は思ってしまうけど、その手法自体に否定的な感情はない。
実際にその言葉を信じることで自己肯定感が上がり、その日1日を気分良く過ごせるのなら、素晴らしい手法だとさえ思う。
例えばイベントの告知などで、「選ばれた人しか来れませんよ、来れるのは特別な人たちだけですよ。」と最初から銘打っているならいっそ清々しい。
「え?まじで?私は選ばれた特別な存在なんだ!」って思いながら参加出来たら、それはそれは楽しい時間を過ごせるだろう。

ただ、こういうことを後付けで言い始める人を見ると、なんかがっかりだなと感じてしまう。
イベントを主催すると、声をかけても期待したような反応がもらえなかったり、集客が伸び悩んだりうまくいかないこともある。
そりゃ気分も落ち込んでしまう。
自分には力がないんだ、自分のやり方が悪いんだ、と自分を責めて自分から沼に飛び込んでもがき苦しむことも、私自身やってきた。
そんなドMの自分がいることも否定はしない。

ただそういう状況を、「選ばれた人しか来れないから」「来れない人は上の存在からはじかれたから」という言葉で表現しているのを聞くと、一気に興ざめしてしまう。
「へーーーーーーーーー」としか言いようがない。

確かに、タイミングはあると思う。
出会うべく人、出会うべく時期は全て最善という感覚も自分の体感として分かるようになってきた。
「はじく」という言葉のニュアンスに、使う側と受け取る側の違いもあるだろう。

それを踏まえたうえでどうしても
「上の存在というものは、そんなにも心が狭いものなんですか?」
という引っ掛かりがぬぐえない。

だって、ワンネスなんでしょ?
私たちは創造主の一部なんでしょ?
全ては愛なんでしょ?
そんなことする⁉

・・・あぁ、そうか、これはおはじき遊びなのか!
はじいたりはじかれたり、「体験」というおはじきをどれだけ多くゲットできるか遊んでいるのか!

あれ?
書き始めたときのモヤモヤが、小さい頃に遊んだおはじきの楽しい記憶に塗り替えられてる!
文章を書くっていいな!



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