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「人は話せば必ず分かり合える」は諸行無常なり の話

つくしです。画像は沙羅双樹。

今日は元々note書くつもりなんてさらさらなかったはずなのに…

気づけば脳内下書きが始まっていました…

今日は私の過去の話と直喩をたくさん交えながらお話していきたいと思います。

なぜこんなタイトルにしたか、というのは特に意味はないのでただ春の夜の夢の如しとでも思っておいてください。

ちなみにタイトルと↑の一文は帰りのチャリで脳内下書きに書き起こしました。

さて、本題です。

簡単に言うと、「話せば必ず分かり合える」は夢物語だと思ってる、という話です。

と言いながら早速否定するようであれなんですけど、実は半年くらい前までは私も話せば分かり合えると信じていました。信者でしたね。

おそらく、今の私が過去の私に「そんなん幻想やって〜www」と言ったら失望しちゃうと思います。

(うわ…成長するってこういうことなんか。人生と人間関係に妥協するしかなくなって、そんなことを言うようになったんやろな、哀れな私…)てな感じで。

でもね、そんなこと言ってもね、無理!!
どう頑張ったかって無理なことはあるよ!!

って、昔の私に教えてあげたいですね。
これを分かってなかったせいでしてしまった苦労もあります。

あれは中3のとき…(突然始まる回想)

当時吹奏楽部だったので、コンクールの自由曲を決めないといけないわけですよ。でもなかなか3年の意見がまとまらず、ミーティングの時間を取ることに。

自分の意見は少数派で、有利不利で言えば間違いなく不利な状態。

自分の意見を通すには、(言い方はめちゃくちゃですが)どうにか自分の言葉で考えを分からせ、納得させなければならなかったわけです。

そしてミーティングが始まる直前、私は何を思ったか泣き出してしまいました。

!?

…今思ってもなぜ突然泣き出したのか謎でしかないし、なんか笑えるけど、友人には大変な迷惑をかけました…

その後どうなったかというと、どうやっても全く泣き止めず、仕方がないので私だけみんなのミーティングする声が聞こえる別室に閉じこもり、筆談させてもらいました。

まあ結局それでも意見は通らなかったんですけどね。
(というのはそれを根に持ってるとかではなく、ちゃんと決まったことに対しては頑張りました。)

この出来事は自分にとってもかなり大きい事件なので今でもたまに「なぜ泣き出したのだろう」と考えるのですがなかなかいい答えが見つからず仕舞いです。

なのでこれは推定なのですが、「自分が果たさないといけない仕事(ここでは意見を通すこと)にあまりに強いプレッシャーを感じてしまったこと」が原因かなあと思ってます。

…おっと!話しすぎましたが、これは「話せば分かり合える」が嘘だと思ったきっかけではないのです!

この後もなお、信者のままでした。

先程も述べたように、それが夢物語だと気づいたのは高校に入ってから。

まあ簡単に言うと、今まで出会ったことのない価値観を持つ人と何人も出会ったことが気づくきっかけだったのですが…
話してもそんな面白くないのでカット。

私が一番言いたいのは、「どんなに頑張って話しても分かり合えないことは必ずある」と割り切ってしまえるというのは本当に楽になれる!というお話です。

言わば「修行しなくても苦労から解脱できる」という話です。
出家しなくても極楽浄土行けるよ、みたいなお得なお話です。

でも、そんなこと言われても簡単には割り切れませんよね。

過去の私がそうだったからよく分かります。

だから、どうやったらこの感じが伝わるのかな…と考えてました。
…それがこのnoteを書くことになった理由なのですが。

まず世界には、自分と価値観が違う人がごまんといるわけです。それは私も昔から理解しているつもりです。

だから、話せば話した分だけ、その価値観を交換し、共有できると信じていたわけです。

でもね、皆さん。考えてみてください。

嫌いな食べ物、ありますか?
私はナスが嫌いです。

きっとナスが大好きな人もいるでしょう。

ナスが大好きなそこのあなたは、どうにか私を説得して私をナス好きにしてください。

そうするときっと、色んなナスの美味しさを教えてくれるのでしょう。

味?食感?調理法?

いやいや、私はナスの味と食感が無理なんです。

はい、この時点でもう詰みじゃないですか?

…自分で言っててだいぶ無理やりなのはわかってるんですが、要は考え方も同じなんです。

ナスが嫌いな人にいくらナスの魅力を説明したって理解してもらえることはまあ稀でしょう。この説明は完全な無駄です。

こんな感じで、ピーマンの苦味が嫌いな人は「この苦味が最高!!」と言われても「…ああそうですか」ってなるし、たけのこ派をきのこ派に変えるには、相手がよっぽど今まできのこを食わず嫌いしてたとかでもない限りほぼ無理でしょう。

それにですよ、ナスの話に戻りますね。

どう頑張ってナスのプレゼンをしても理解してもらえない。けどどうにかして魅力の1ミリでも伝えたい!!と、血のにじむような努力をしてくださったとしましょう。(ありがとうございます‪)

その結果、何とか辿り着けたのが「じゃがいもはホクホクで美味い!トマトは甘酸っぱくておいしい!!」だったら?

多分はっ倒したくなりますよね。

その野菜は、ナスではない。

「ナス科」だ。

バーン。

もうこうなったら完全に意味のない努力ですよね。

いや、わかってるんです!めっちゃ無理やりですよ!
そんな不審そうな顔をしないでください頼みます…

私が言いたいのはね、「その努力はもしかすると『しなくてもいい努力』かもしれないよ」ってことです。

嫌いを好きに変えるより、好きを大好きにするほうがよっぽど少ないエネルギーで良い結果が出ると思いませんか。

ナスが大好きなあなたはナス好きコミュニティでおいしいナスの情報を共有すれば幸せ。きのこたけのこ戦争はしないほうが平和に決まってる。

なのに人はどうして争うの?

…難しいですよね。

いや、何となくは分かります。だって論破って気持ちいいじゃないですか。自分の「好き」は広めたいし、布教したいじゃないですか。

仏教だって、唐の僧 鑑真が視力を失ってまで日本に伝えたいという驚くほどの熱意を持って来日してくださったからこそ今の日本があるわけですよ。

でも、私たちは現代に生きていて、視力と引き換えにしてでも伝えたい主張なんて、まあ~ないでしょう?
…あったらすみません、視力を失わない程度に頑張れとしか言い様がありません。

だから、冷静に考えましょう。苦労は美徳ではありません。

「これが好き」「私も好き」って言い合えるほうが素敵だし、
意見が合う人と話してるほうが圧倒的に幸せだとは思いませんか。

合わないなら合わないでいいんです。無理に理解してもらわなくてもいいんです。

だから、逆も言えますよ。
自分も、相手を無理に理解する必要なんてないんです。

生まれたところも育った環境も違って、理解できないところがあるなんて、ある意味当然のことです。

私はこのことに気づくのに随分時間をかけてしまった、というか、たどり着くまで随分遠回りをしてしまった気がしています。

ひとつ、誤解してほしくないのは、意見が合わない人とコミュニケーションするのは無価値であるという主張ではありません。

相手の意見を自分の意見にしなくてもいいし、逆も然り。

相手の考えに嬉しくなっても腹が立っても哀れに思ったとしても、「そういうことを考える人もいるんだな」「理解してみたいけど、最悪理解出来なくてもいいや」と、軽〜く理解できたようなつもりになっておけば大丈夫かなと、私はそう思います。

コミュニケーションって、想像より結構体力を消耗します。疲れない程度に、一緒に生きていきましょう。

驕っちゃダメですよ!

**

めっちゃ仏教色全開なのはただの気分です。
そんな熱心な仏教徒ではありません。

もちろん、このnoteに納得できない人もいるでしょう。
納得しなくて大丈夫です、そういう話です。

まあ、納得できない人はこの文も私の主張も全て「空」とでも思っておいてください。

今日はnoteに慣れたからか、私ワールド!って感じでお送り致しました、非常に楽しかったです。

閲覧有難う御座いました。

それでは!

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