アート作品の語り手と意識について

最近、年末という時期に入り、ようやく本を読む時間を取ることができている。
小説は伊藤計劃の「ハーモニー」「虐殺器官」を中心に、評論はミシェルフーコーやアントニオネグリを勉強している。
自分は伊藤計劃に陶酔しているわけだが、その中でもやはり「ハーモニー」は格別に気持ちいい。
伊藤計劃の作品は、その小説自体が物語の先の世界で書かれた記録という設定になっている。
例えば、「ハーモニー」はハーモニープログラム起動によって感情を失った人類が、擬似的に感情を起こすためのetmlという言語で書かれた記録である。
当たり前だが、小説には小説自体を書く著者がおり、それとは別に物語を語る語り手がいる。
この場合、著者は伊藤計劃であるが、語り手は霧慧トァン(正確には個が存在しないので人類そのもの)である。
そしてここで、ある疑問が湧いた。

小説における語り手はアート作品において何に当たるか?

言語はそのメディアの構造上、必ず主語が存在する。
なので、言語を用いて書かれた小説には主語が用いられ、語り手が生まれる。
しかし、立体造形やインスタレーションのようなアート作品は言語で書かれていない。
もちろん、そもそも語り手を必要としないアート作品もあるだろうが、メッセージ性を持つ以上はそのメッセージを語る語り手は必ずいる。

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絵画や動画のように、それぞれ窓や視点というものが存在するため、それらを主語と見なすことができるものもあるが、立体造形やインスタレーションにそれらを見つけることはできない。
一方向からの鑑賞を求めず、多方面から鑑賞たり、その空間の中にいる自分に意識を向けたりするからだ。
伝えたいメッセージ性や世界観を制作者という語り手を通じて鑑賞させること自体がアートであると言われればそうかもしれない、、、
が、言語化できないが何か腑に落ちない感じもする。

少し、突飛な発想をしてもいいかもしれない。
例えば、作品に意識が存在してる、という考えだ。
生物のように意識を持っている。
この場合、作品は植物に近いだろう。
などと考えてみたものの小説や絵画にも意識が存在していると考えることもできるため、アート作品のみを特別視することもできない。


ここ数日このことを考え続けて頭がおかしくなりそうなので一旦筆をおく。
何か参考になりそうなことがあれば教えてほしい。


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