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仏教についてのリサーチ Part2

本記事は秋山 昌海著の『仏像印相大辞典』を要約した記事である。私、佃のオリジナルのテキストは全くないが、勉強したことを共有できればと思う。

https://www.kokusho.co.jp/np/isbn/9784336002617/

仏の特徴

曼荼羅に書かれてある仏を区別するために様々な特徴がある。

  • 形像・・・仏像の姿形。一体の尊に数種の形像は存在することがある。

  • 種子・・・一字で一尊を表すサンスクリットの文字。一個のアルファベットが数体の仏像に共通して用いられることもある。

  • 三形・・・三昧耶形。仏像のシンボルとなる器物、植物、自然現象。蓮華、宝珠、剣、月輪。

  • 印相・・・仏像の手の形、手が示している相。主要なテーマ!

  • 真言・・・「真」理の「言」葉を意味する。元はバラモン教の呪文。如来や菩薩を讃え、本尊を信仰するための秘密の言葉を呪文として唱える。短い呪文を真言、長い呪文を陀羅尼。一文字または二文字の表現を種子。

印契

三行・印相は重要視されており、両者をまとめて印契とする。印契を深く知るにはなぜ”印”と言う文字が使われているかが大事である。”印”は押す、押さえると言う意味を持っている。ムドラーは”印象”だけでなく、信仰、信頼、不変の決定とも訳される。”契”は木に刻み目をつけて作った約束手形を指す。それが、ちぎりと言う意味に転じた。
印契の中には、器物その他による象徴(契印)、手の形による象徴(手印)の2種が含まれている。

  • 契印・・・器物その他による象徴。三形、三昧耶形。動物や乗り物がシンゾルとなる場合もある(普賢菩薩は像、文殊菩薩は獅子)

    • 薬師如来・・・片手に薬の容器がある。健康の守護者、長寿を約束する如来であり、シンボルが薬壺である。

    • 観世音菩薩・・・蓮華の花をもつ。左手に蓮華の蕾をもち、右手でその花びらを開こうとする。迷いの中に閉ざされている人の心を、慈悲の導きによって開くことの暗示。

    • 地蔵菩薩・・・宝珠と杖を持つ。宝珠は人の願いを叶える魔法の杖であり、杖は、悪を打ち払う智徳の武器。

    • 不動明王・・・剣と縄を持つ。我欲を切り捨てる智慧の現れであり、縄は悪を縛るとともに善意の人々をしっかりと結びつける願いの印。

  • 手印・・・手の形による象徴。密印、相印(天台派をこちらを多用する)。密教において主因の数は八万四千種にのぼると言われている。これは仏像の総数を上回る。これは手印は、仏像の数だけ用意すれば充分という性質のものではないからである。密教のあらゆる思想を、教えを、手印の形一つで、具体的、象徴的に示すためである。宇宙のどんな事物も、手印に結び出せないことはない。

また印契には有相と無相がある。

  • 有相・・・形のある印相。色がついており、丸や四角の外形もある。このような形のあるものに仏を要約し、悟りを得ることが有相の三密である。

  • 無相・・・本尊は自己の内部に、自己は本尊の内部にいるから、印を結ばなくても自己の一挙一動が印相となる。

三昧耶形

三昧耶形は器物や植物による象徴のことを指す。三昧耶には4種の意味がある。

  • 平等・・・仏の本性と人間の本性とは、もともと同じであり、人間が真剣に修行に励むときは、仏と人間の差別は全く失われ、両者の立場は等しくなる。

  • 本誓・・・”根「本」の「誓」い”の略語である。仏が生命のある全てのものをことごとく救い、悟りの境地に入らせようと願い、誓うことが誓願であり、本願であり、三昧耶の深意である。どの仏も誓願を持っている。それ人々に示しているのが印相である。

  • 除障・・・”除障”は、字の通り、わざわいを取り除くことであり、我欲煩悩を消し去る。

  • 驚覚・・・人々を目覚めさせること。我々人間が生まれ変わり、死に変わる、現世の因縁を仏教では12種に分類して考える。これを”十二因縁”と言う。最初の因縁が”無明”である。無明とは愚かなことを指し、智の正反対のものであり、人間の迷いの根本である。無明の人々を呼び覚まし、悟りを得させることが”驚覚”である。

三昧耶は本誓と内証とを印相と深く関連づけている。そのため印契を仏の悟りの内容と救済の約束の印と見るのである。

三密の修行

密教の行者は三密の修行を行う。三密とは、行動と言葉と心で並行的に実践する秘密の修行である。三密を理解するためには三業について知ることが大事である。”業”とは”所業”を指す。業にも三種類ある。

  • 身業・・・身の行いを指す。仏の戒めをよく守り、精進することも、その逆の殺生、盗みなども、身業である。

  • 口業・・・言葉による行いを指す。

  • 意業・・・心理的、情念的な善悪がある。

これらの三業を善の方向に持っていくために行うのが”三密”である。

  • 身密・・・手で印を結ぶ。

  • 口密・・・真言のまじないを唱え。

  • 意密・・・心に仏を観じる。

印を結ぶことが三密中の筆頭になってくる。行者の三密は、仏の三密と融合することで”ほとけ”となる。瑜伽や加持も関連づいてくる。”瑜伽”とは心を安定させ、正しい道理、真理と相応じる状態を指す。主観と客観が、一切の事物と相応じ、融合して、一つになった境地である。これを目指すために行われるのが三密であるのだ。加持とは災いを遠ざけることを指すが、どちらかといえばこれは加持による結果である。加持とは仏の三密が人間の三密を清め、人がそのまま仏になる隠ん円を作ることである。
『三密加持するによりて本尊と相渉入し、瑜伽を成ずることを得るなり』

二手十指

そのようなわけで手によって仏の教えを表現するわけであるが、右手と左手によって持つ意味も変わってくる。右手は”慧手”、左手は”定手”といい、印を結ぶにあたり慧手を金剛界に、定手を胎蔵界に例える。

  • 慧・・・「智」「般若」をさす。般若は最高無上の仏智である。宇宙のあらゆる事象の実体、真実、真相を見きわめることである。智慧はダイヤのように強力で無限に滅びることがない。人間が迷い苦しみ、悪事を働くのは無智のためである。では智を得るにはどうすれば良いか?その修行が「定」である。

  • 定・・・智を得るための修行が「定」「禅」である。「定」とは心を沈めて静寂の境地に入ることをいう。考えることで仏と交流し、悟りの心を興し全ての人を同様に悟らせる。

成仏を目指す人は、「定」によって「慧」を得るのである。また、自己の内部に「慧」があるからこそ(胎蔵)、「定」によってそれを引き出すことができる。
慧手は”智手”と言われる。智は般若に達するための方便として用いられる。右手を「智」に例えた場、左手は「理」「福」「権」に例えられる。
理とは胎蔵界に対応する。仏になりうる「理」は生まれながら存在している。「理」を磨き上げた結果が「智」になる。つまり、真「理」だけがあって発見する「智」慧がなければ真「理」は無意味であるし、「智」慧があっても働きかける真「理」がなければ「智」慧は全く役に立たない。つまり「智」と「理」は表裏の関係に置れている。
右手と左手は「外」と「内」、「日」と「月」にも例えらる。違う言葉も使えば、右手は金剛界の「修生」、左手は胎蔵界の「本有」である。本有はもともと身心に備わっていること、修生は後天的に得る悟りの姿である。

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