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#000:企画書_設定資料

設定・ストーリー要素

全員が二つの身体を持っている。男の身体と女の身体。それぞれに別の両親がいる。人間関係は全体的に希薄。というか身体が二つある以上、相手を真の意味で理解することができないから知ろうとも思わない。50m先のバスケットゴールにボールを入れようとしないのと同じこと。主人公は、男は芸術家、女は女優をやっている。時代背景は2、3年後。夢をよく見る。そっち側に行きたいと考えるようになる。そっち側とは「ユニバース」「メタバース」「Wired」「アナザーバース」「電脳コイルのバグ」。現実と白昼夢がわからなくなる。引き算で目指す人が多くいる。でも、足し算によってそれを目指す。取り込む。

筋書き:夢をよく見るようになる→アーティストや女優としての倦怠感→違う世界への憧れ→違う世界の観測?鑑賞?を試みるようになる。

キャラクター要素

ツクダ ・・・日記の作者。第一人称は「僕」「私」。

テーマなど

自己とは?ドゥルーズの言うように<器官なき身体>が核としてあって、そこに<諸器官>がついているような存在なのだろうか?それとも生命記号論のように情報の吹き溜まりにしかすぎないのか?前者なのだとしたら、引き算のように肉を削ぎ落としていけば人間の核にたどり着ける。これは攻殻機動隊やフィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』といったような世界観だ。しかし、人間はもっと揺らいでいて多面性のあるものだ。玉ねぎのようなものとも少し違う。もっとトポロジーでは説明できないうちも外もない存在。周りとも繋がっている。時間や反実仮想とも繋がっている。揺らいでいる存在。そう言う意味では、デリダやガタリの方が近いのかもしれない。引き算によってではなく、足し算によっていける向こう側(アナザーバース)。

テーマを何か?と聞かれると「人間の多面性」と言うのがもっとも短くて外れてもいない表現だろう。しかし、この表現は手垢で汚れすぎている。一旦「多面的影響や観測による自己の創造」といったテーマにしておく。もう少し具体的なテーマは書いていく中で考えていくとしよう。

二つの身体について・・・

小説にする意味・フィクション日記という形態

テーマにも書いた人間の多面性・揺らぎ。その可能性を探るため、あえてアカウントも人格も分けて別世界としてフィクション日記を書く。小説のような語り口調にすると、別人格が書くと言う側面がなくなってしまい、人間の多面性というテーマからずれてしまう。

参考資料

Serial experiments lain

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