毎日1000文字エッセーを12日やる、3日目「美術館」(ルールを破ります。)

最近自分の意見なのか昔本で読んだのか高校のころの現代文の授業でやったのかわからなくなることが多い。しかしまぁ、自分の意見として書いていく。

私は今日芸専の卒展展示(三週目は大学院の、絵とかのジャンル)を見に行った。そこの展示というのは卒業展示なのでその人たちが作ったものを展示している。

さて、これはつくば「美術館」で行われている。
美術館といえば当然地元に密着しているものが存在したり(地元出身の作家のものや地元を描いたものを収集していたりする)、逆にジャンルのようなテーマがあってそれに沿って収集しているものもある。

私が美術館といったとき思い浮かべるのは「国立西洋美術館」である。
私の家から上野は近くて行きやすい。なので幼稚園に入る前ぐらいから、親が国立科学博物館に週5とかで連れて行ってくれたらしい(死ぬほどせがまれたから大変だったらしい)。なので年が大きくなるにつれて当然上野にあるほかの施設にも興味が湧く。
その流れで国立西洋美術館にも行くようになったと思う。多分小学生のころにはたくさん行ってたように思う。
逆に言うとそれ以外の美術館、というか上野以外の場所にはあまり言った覚えがない。特に美術館となると本当に上野以外に行ったことがない気がする。
そして国立西洋美術館は西洋の美術に焦点を置いたものである。

よく「美術というものは高尚で見方がわからない」という声を聴く。
その通りである。

アウラ、という概念がある。最近流行りのアニメの話ではない。
要は目には見えないそのものから感じる本物からの力みたいなものである。ヴォルター・ベンジャミンが考えた概念である。
ここから複製美術がさぁ!とか、レディーメイドがさぁ!とかいうべきなんですけど、今回は少し横道にそれ、この内容は少しあとで一瞬触れる。

私たちは美術品を見るとき、又は博物館でも良い、何か物を見るときにそのもの自体の美をただ感じとれるか、という話である。(以降アウラ、とする)
私は否、だと思う。

先ほどの美術の見方の答えをお教えしよう。これは「美術の流れに沿ってその大きな流れからどのような位置づけにあるのか」を考えながら見ればよい。なので美術史は知っておいた方がよい。基本的に前の流れのカウンターと思うとわかりやすい。

でもそれって本当に「美」を感じとれるのか?という話である。
アウラだけをなかなか見るのは難しい。
それこそ私は国立西洋美術館の特別展「カラヴァッジョ展」でその頃その画家のことを一切知らなかったが、『ナルキッソス』を見てスタンダール・シンドロームに陥った。それほどまでに美しかった。
しかしそんなことは稀だ。

我々は情報を鑑賞している。
今回の卒展にはキャプションなどが存在していなかった。自分で作品に何かしらの位置情報をつけたり、この色が綺麗だ、とかこの場所は知っている、これはリアルだ、これはイコンのようだ、などと鑑賞する。
なのでそういうのが一切できない書の分野(私がこの分野無知なので)になるとどうしても足が速くなってしまう(腐っているわけではない)。なので逆に知っている人名(紀貫之とか)が出てきて足を止めたり、「大」の字(恐らく?)が東工大の校章に似ている!とかいう思考をしたりみたいなことしかできない。

だから現代芸術は解説がないと読めない。
余談だが私は先ほど文脈がないと鑑賞といったが、文脈ありきの芸術は好きではない。
確かにレディーメイド自体にアウラは存在すると思う。複製としてではなく、一点一点としての意味で。
しかしだからと言ってわざわざ男性小便器を展示するのか?
まぁ、これは良い。
真に許せないのは幾何派(言い方があっているかわからない。四角形と線の集合みたいな絵のことを指す)のような、本来デザインとして売り出すべきものをアウラがあるから!みたいな売り方をし、挙句の果てに投機用のものとして運用するせいで死ぬほど高い何億円みたいな値段で売られていることである。舐めやがって……()

結論ではあるが、私の意見として、美術というのは二つの側面があり、アウラと、美術という一つの文脈が存在する。
そして、私は、アウラは全てのものに存在していると思う。
感じようと思えばそのへんの椅子にも、小学生が描いた絵にも、今見える景色すべてに感じることができるであろう。
しかしそれは感じとろうとすれば、という話だし、感じやすさ、というのもある。

それに対して、芸術という文脈は、意味付けである。
人間は物事をそのまま消化することは不可能である。
例えば言語化が挟まってしまう。「月が綺麗ですね」と言ったときに月が綺麗という言語によって、アウラから「月が綺麗だったという言語化をしてラベリングした経験」に照らし合わされてしまう
なので人間には意味付けとは切っては切り離せない。

そして私にとって美術館とは「文脈の展示」である。国立西洋美術館はそうであろう。なんなら博物館は特にその意味合いが強い。
そしてその文脈の展示の途中にアウラを感じとる。

そしてその意味合いが薄いのが卒展である。
またはT+である。

よく工シスの友達を引き連れてT+に行くのは意味付けを幅広くするためだ。大体美術の文脈には詳しいし、細かいところが気になってしまう性なので連れてきた友達に対してこうではないか、という解説に回れることは多い
しかし、彼らは彼らなりの視点で面白いものを提示してくれる。なのでT+に行く習慣をつけさせたいというのはあるが、それ以上に自分のために連れてきている。

だから私が「美術館」だと思っている美術館に行くのは恐らく得意だしツアーもできるが、逆にT+や卒展のようなところでは縮こまった猫のような装備で戦いに行くしかない。
まぁ、実際100%引き出せているかどうかはわからないが、少なくともT+も卒展もとても楽しく見れていると思うし、行ってよかった、この作品が好きだ、みたいなのを得てるから行って正解ではあると思うが。俺は間違ってない。

まだ見ぬアウラを、まだ体験してない目眩を得るためにも美術館へと向かう。(2463文字)

謝罪

すいません、800~1200文字で書くと言いましたが無理でした。
これは普段から思っていることなので是非とも書きたかったんですよね
……
なので最大文字数の2倍以上になってしまいましたが、このまま提出とさせてください。減点で許してください。体裁が整ってないから不受理・0点・落単って三コンボはお許しください。