4階から飛び降りた結果の話⑤


さて。

電動ベッドじゃないと無理だと泣き喚いた結果
精神科病棟ではあるが開放病棟へ移動になった。

監視としてまた特例で母の泊まり込みが条件。

長い距離は歩くことができず
車椅子を使って移動していた。

術後のCT検査は地獄だった。
車椅子から検査台に移るところから激痛
そしてまた車椅子に戻るのも激痛。
看護師さんにしがみついての移動だった。

短い距離であれば歩行器を使って歩けるようになり、病棟に置いてある本を探しに1人で歩行器をカラカラ言わせながら歩く練習もした。

精神科の治療として服薬も始まった。
整形外科病棟に居る間は痛み止めと胃薬のみ処方されていたので、向精神薬を飲むのは飛び降りた日ぶりだった。


そして母と長く過ごす日々が続いていた。
当時、私と母の関係は拗れており
お互いがお互いを思うからこそ
変な具合に捻じれ拗れしていた。

そんな訳で最初は母とずっと同室
おまけに私は介助がないと動けない状態は
緊張しかなかった。
ここまできて喧嘩なんてまっぴらごめんだと。

初めはとにかく私の泣き言
(痛いだの、死ねなかっただの諸々)を
母が諌める感じで。
それからは少しずつ日常の会話を。

そして開放病棟へ移ってからは
私の幼い頃の話をたくさん聞かせてもらった。

初めて聞く話ばかりだった。

幼い頃の私はとにかく兄の姿ばかりを追いかけ、兄と同等に扱われたがったこと。
兄を追いかけることに必死で母に甘えることはとても少なかったこと。
抱っこをせがみにきても、すぐ満足して母の腕から抜け出していたこと。
何でもひとりで自分でやりたがる子だったこと。

幼児の私はかなりのブラコンだったらしい。


そしてそんな話を聞くうちに
私が思っていた以上に
「ちゃんと」愛されていたことに気付いた。
「きちんと」私だけを見て愛してくれていたことに。

言葉にしなきゃわからない
なんてよく言うけれど。
それ程に愛されていると思わなかった、
思って育つことができなかった。

母の厳しい面ばかり覚えて育った。
やさしくも厳しい人で完璧主義な人。
「母親」という義務で私を愛そうとしているのだと思っていた。
ひとりの人間として見てもらいたいと、愛してほしいとずっと心の隅で思っていた。

この入院生活で一番変わったのは
母との関係性だったように思う。

そりゃ24時間ずっと同室だったらね、なんて。


今、関係性が良好かと問われれば
わからない と返すだろう。
母娘問題は拗れると根が深く、簡単に解けるものではないと思っているから。
離れて暮らすくらいが丁度いいのだ。
たまに数時間会うくらいでいいのだ。
今でも支配下に置かれている(気がする)
そんな呪いは解けない。

それでも昔より上手くやる術を覚えたから。



今回はここまで。
飛び降り健忘録というより
母と娘 の話になってしまった。

次回は続くリハビリとやっと入れたお風呂のことでも書こうか。

飛び降りて早数年
これを書いている今も腰は痛いし
太ももの痺れ違和感不快感は消えていない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?